奥田庵

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ルチェルナのこと 第十八章・その②【最終回】

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それは夢の中で見たときよりも美しく、そして生命の伊吹のような風が感じられた。実際感。自然が作り出した圧倒的な異空間。

「お前が捜しているのはこれのことだろ?」

小人は一つの水溜りを指さした。僕は小人に近づき、その水溜りを覗き込んだ。そこに映っていたのは、薄暗い闇の底で体を丸め眠っている少女の姿だった。その少女はたぶん、

瑞希ちゃん?」

僕はそう言うと、小人の顔を見た。小人はコクンと小さく頷いた。

「あの子は起きるのをずっと拒否し続けている。純粋のまま、目を覚ますことから逃げ続け、気が付けば足をすくわれそうになっていた。あんたはあの子の純粋性に惹かれ、自分を探し、取り戻すことができた。なにがどう正しいって話じゃないが、まあ、恋だな」

「恋、ですか……」

「彼女のどんな部分に惹かれ、それはお前自身のどの部分を揺さぶっていたのか。そして彼女の苦しみを知り、それをどうにかしたいとお前は思った。そしてここへと繋がったわけだな」

「はあ……」

僕は状況を瞬時に把握できるほど、頭が回転していなかった。ただ胸が締め付けられ、切なさが僕の体を包んでいた。

「俺、説明下手なのかな?」

黙り込んで固まる僕に不安になった小人がたずねた。

「いや、そういうわけじゃ」

「まあ、あとは飛び込むだけだ」

「飛び込むんですか?」

「好きなら飛び込め。余計なことを考えるな」

「飛び込んだらどうなっちゃうんですか?」

「そんなことは知らねぇよ。お前たちの問題だろうが。自分で考えて、自分で判断するんだ。ま、幸いそんな恥ずかしい恰好だし、飛び込むにはちょうどいいな」

「はあ……」

僕はもう一度水溜りの底を覗き込んだ。

「なあ」

小人が声をかけてきた。

「はい?」

「また、遊びに来いよな」

「え? はい」

「みんな忘れちまうんだ。そして、全部俺のせいにするんだ」

「あの、一度聞いてみたかったんですが」

「なんだ?」

「ルチェルナさんは、なんでこんなに親切なんですか?」

「そりゃ、あれだよ。お前にもそのうち分かるさ」

小人は照れたように、体を捻り、とがった鼻の先を掻いた。

「まあ、なんだ。俺は子供には見えるんだ。見える奴にはな。でも、見えなくなって忘れ去られる方の気持ちってのも切ないもんなんだ。だから、こうやって大人になったあんたに会えるのは嬉しいんだ。お前も小さな頃、俺が見えてたんだぞ。その感じだと、どう考えても忘れてるんだろうがな」

僕は、小さな頃のことを思い出そうと考えた。だけれど、やはり子供の頃小人を見た記憶はどこにも思い浮かばなかった。

「それでいい」

と、小人は言った。

「過去なんて素敵な時間だけ覚えていればいい。だから俺は今、お前に会ってる。そして、お前は俺に今会ってることを片隅に感じてくれてれば、またいつか会える。だから、俺は今を素敵な時間にしたいんだ。そうすれば、きっとまた会えるから」

「ありがとう。約束します。また会いましょう」

小人は小さく頷くと、

「よし、行けっ!」と、僕を見つめ叫んだ。

僕は思いっきり息を吸い込み、水溜りの中へと飛び込んだ。

体全体が吸い込まれていくように浮かばず、ゆっくりと沈んでいく。小さな水面の窓の一つ上に小人が覗き込んでいる姿がユラユラと見える。それが次第に小さくなっていく。無数の水溜りが、それぞれ小さな水面の窓となり、僕が吸い込まれ、底へ下がっていくと水溜りはそれぞれが小さくなって、いつしか星空のように僕の頭上を包んでいった。

耳が水中に入ったとき特有のゴワンゴワンとした音で包まれる。

落ちていく。深い闇の底へ。水面から見る少女の瑞希はあんなに近くに見えたのに、どこまでもどこまでも深く沈んでいく。息ができない。苦しい。しばらくして悶絶するほど苦しくなった。どうしよう、死んでしまうかもしれない。

僕は限界を感じ、体中に含んだ空気を口から放出させた。

ボコボコと泡が上がり、そのまま息ができず死ぬのだと考えたとき、その薄暗い闇の中、まだ息ができることに気が付いた。

なんだいったい。僕はそのまま、闇の奥底までたどり着いた。

そこには、一人の少女が眠っていた。

子供の頃の瑞希。透き通るような肌。うっすらとピンク色のくちびるが、少し口を開け、息をしている。無垢な寝顔。

僕は、少女の横へと座り、しばらくその寝姿を眺めていた。

静寂。微かに聞こえる少女の寝息。

眺めているうちに僕は涙が出てきた。こんな純粋な存在を僕はまた、目覚めさせ、あの世界へと戻そうとしている。それは正しいことなのかと迷った。

そして、眠り続けていたい瑞希のことを思うと、僕はどうしても涙を止めることができなかった。この深い暗闇の底で、少女は無垢な寝顔で眠り続けている。それが意味する絶望と悲しみ。僕は痛いほど胸に感じ、拭っても拭っても涙がこぼれ続けた。僕は声をかけることしかできない。それを受け入れるかどうかは少女の問題だった。だけれどもし、彼女が目を覚ますことがあったのなら、僕は彼女を守りたいと思った。全力で。

ふと、年老いた両親が脳裏に浮かんだ。お互い歳をとること。それがどうしようもなく愛おしいことに思えてきた。

そして僕は覚悟を決め、涙を拭い、彼女の肩へと掌を伸ばし、揺すった。

瑞希ちゃん。起きよう」

僕は小さな声で語りかける。少女は起きない。

「どうか、目を覚ましてください。僕が頑張るから」

今まで見てきた瑞希の姿が頭をよぎる。僕に話しかけてくれた瑞希。それはずっと遠く、幻のような、だけどしっかりと存在する。

どこかで終わりたがっていた自分がいた。けれども、それに納得できない自分も感じていた。それに共鳴するようにあの日の瑞希を思い出す。「私が死んだら泣いてくれる?」

僕はまた自分の涙を拭い、「まだ終わってない」と言った。

そして僕もずっと寂しかったことに気付く。どうか目を覚ましてくれ。

瑞希ちゃん。起きよう」

そのとき、少女の瞼がピクンと動いたような気がした。

起きる? 頼む、目を覚まして!

突然、体が水圧に持ち上げられ、一気に押し上げられた。

「うわっ、ダメだ! もう少しなんだっ!」

僕は水圧に押し上げられ、そのうちその水は渦を作り、僕は一気にその中へと巻き込まれた。

 

 

目を覚ましたとき、そこは森の中だった。

月明かりはとうになくなり、太陽が昇り始めていた。世界全体を赤く染め、僕は地面に寝転がっている自分に気付く。

記憶はある。実感もある。ただ、今までの出来事を示す証拠は僕の中にしか存在していなかった。

僕は、軽トラで眠っている瑞希を思い出し、立ち上がり走り出した。

森はすぐに車道に続いていて、僕はその先の駐車場に止まる軽トラを確認し、全速力で走った。

そして、そこに瑞希が存在していることを一刻も早く知りたかった。

「ハアハアハアハアハアハアハア……」

軽トラに辿り着くと、ドアを開け、そこに寝ている瑞希を確認した。

「眠っている……ハアハア」

僕は運転席に乗り込み、瑞希の横へと座った。

結局、瑞希は目を覚まさなかったのだろうか?

僕は瑞希の寝顔を見つめながら、自分の思いを語った。

「僕は君を見ていると何度も何度も涙が出てくる衝動に駆られるんだ。それはきっと、瑞希ちゃんの中に、僕自身が失いたくないなにかを見ていたからだと思う。僕はそれがなんなのか、さっき、はっきり見てきたよ」

僕はあの少女の瑞希の寝顔を思い出し、再び、涙が出てきた。

それはやはり拭っても拭ってもいつまでも零れ落ち続けた。

僕は掌で顔を覆い、頭を下げた。

「泣くの早くない?」

「え?」

僕は顔を上げ、瑞希を見た。

「私、まだ死んでないからね」

瑞希は昔、僕に言った。「私が死んだら泣いてくれる?」瑞希はまだ死んでいない。目を開け、息をしている。

「うん。ごめん」

瑞希が目を覚ましている。その顔は、やはり無垢で、美しかった。

「ねえ、栗田君の夢を見ていたのよ。ずっと、深く暗い奥底に閉じ込められた私に声をかけ続けてくれたの」

僕は確信した。繋がっている。

「それは夢じゃないよ」

「私、なんだか緊張してるの」

瑞希は囁くような小さい声でそう言うと、僕を見つめ小さく笑った。

「ねえ、大事にして」

瑞希はそう言って、静かに涙を流した。

 

 

オレンジ色の朝日が、僕達を柔らかく照らした。また一日が始まろうとしているのだろう。いや、すでに時間は流れていて、かけがえのない今を僕達は、生きていた。

幾つかの約束が僕の胸に染み込んでいる。

それだけで良かった。

それだけで僕は、なにも怖くなかった。

 

 

 

 

 

 

 

恋すること

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