奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

ルチェルナのこと 第十六章

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十六

 

それは静寂の中、僕は瑞希の寝息に耳を澄ませ、暗闇が月明かりに染められ、青白く辺りを照らし始めた頃のことだった。

「よう、調子はどうだい?」

声がした。あの小人が小人獲りの僕に話しかけるような感じで。

僕は、ガバッと体を起こし、辺りを見回していた。

小人はどこ? しかし、小人の姿はどこにもなく、僕はほんの少しの間、眠っていたことに気が付いた。

「夢? か……」

僕は一度溜息を吐き、フロントガラスの向こうの夜景に目を移した。

瑞希の寝息が聞こえる。僕は瑞希に目を移す。瑞希は月明かりを浴びて、静かに目を閉じている。僕は彼女の寝顔を見つめながら、自らの心臓の高鳴りに耳を澄ませた。

その姿はもう目を覚まさないのではないかと僕を不安にさせた。月明かりを浴びた瑞希の肌は透き通っているのかと思うほど白く美しかった。瑞希はオレンジのシャツに白のショートパンツを穿いていて、首から小さな青白い石が光るネックレスをしていた。

瑞希はどんな気持ちでこの服を選んだのだろうか? どんな気持ちでネックレスを選び、どんな気持ちで家を出てきたのだろうか? 今日と言う日が祝福されるため、今日と言う日が楽しみで溢れることを望んで、純粋にただ、喜びを求めた結果、彼女は今、想像もしなかった現実の中にいるのかもしれないと考えると、胸が痛んだ。

 

ドアを開け、外へと出た。外はまだ温かく、夏の名残が空気からも伝わる。心地よい風が頬を撫で、僕は疲れを振り払うように思いっきり伸びをして体全体に意識を行き届かせた。

軽トラの荷台に乗り、体を横にして星空を見上げた。

月明かりに照らされ、全てがそれで許されるかのような静寂の青。僕はこのあと、どうしたらいいのだろうか? このままでいい。もう、これ以上は求めない。それが本音だった。

心地よい空気、完璧な青。瑞希の寝息、静寂。こんな素晴らしい今に辿り着いたのに、そこへ留まることが許されない切なさ。

いつまでも時間が流れることに怯えて生きることの虚しさ。

それならせめて今を感じていたい。だから、もう、なにも考えたくないんだ。

ここにただ幸せがある。僕はそれを感じていればいい。

 

ふと、気配を感じた。

風が通り抜け、駐車場の先にある森から木の葉がザワザワと揺れる音がした。森からなにかが近づいてくる。が、道の先が暗すぎてよく見えない。

暗闇から気配だけが近づいてくる感じ。僕は身構えて、それがなんなのか確かめようと試みるが、やはり分からない。

振り切ったクリエイティブメゾンの会員だろうか、ここら辺を管理している市役所かなにかの職員とか、森の中で暮らしているホームレスかもしれないし、ただ山に来て騒いでいる地元の不良かもしれない。

僕は緊張した。瑞希を守らなきゃ。荷台から体を起こし、ジッと暗闇に目を凝らしていると、気配は次第に実態をおびはじめ、月明かりを受け、シルエットが浮かび上がって来た。それは、

「鹿だ……」

鹿だった。

鹿が静かに歩み寄って来て、軽トラの一メートル手前で止まった。僕は寒気が体を包み、鳥肌が立った。

野生の動物と対峙したときの緊張。得体のしれない緊張感。いったいどう対処していいのか、混乱した。

しかし、鹿はそんな僕をとくに警戒するでもなく、威嚇するでもなく静かにこちらを見つめ、月明かりを浴び、スクッと立っていた。その姿はとても美しい。

なにが起きているのだろう? 鹿は僕になにを求めているのだろう? できれば立ち去ってほしいと願いながら、僕は鹿から目を離せないでいた。

すると、鹿が静かに僕の方へと近づいてきた。とても静かな足並みで荷台の僕の前に立つと、僕の方へ顔を近づけた。

僕は恐る恐る手を伸ばし、鹿の鼻より上を撫でるように触った。鹿は抵抗もせず、僕に委ねていた。鹿の温もりを感じ、それはまさしく現実であることを知らせてくれる。温もりが僕自身に伝わり、そして僕の気持ちを落ち着かせてくれる。その眼はとても綺麗で、僕自身の警戒を解いていく。すると、鹿は静かに体を起こすと、森の方へ向き、そして僕を見た。

「どういうこと? ついて来いってこと?」

鹿はジッと僕を見つめている。

「ちょ、ちょっと待ってて」

僕は慌てて荷台から降り、ドアを開け瑞希を起こそうとした。

体を揺すり、「瑞希ちゃん、起きて」と声をかけるが、瑞希は目を覚まさなかった。僕は一瞬死んでしまっているのではないかと心配したが、体温はあり、寝息が聞こえた。もう一度、強く揺すってみたが、瑞希は目を覚まさなかった。僕は振り返り、鹿を見ると、鹿は静かに僕達を見つめ待っている。

僕は配達時に持っていた領収書の紙の裏に「すぐ戻る」と書いて、運転席の上に置いた。

大丈夫だろうか? 瑞希をこんな山奥の駐車場に置き去りにしたまま、僕は鹿に着いていこうとしている。考えれば考えるほどろくでもない判断のような気がしてくる。僕はもう一度、瑞希の体を揺すり、起こそうと試みるが、やはり瑞希は起きなかった。

「彼女は起きないよ」

「え?」

どこからか声がした気がした。周りを見回したが、やはり鹿しかいなかった。鹿がじっとこちらを見つめている。

「彼女が目を覚ますためには、あんたはしないといけないことがある」

声はとても涼やかな声で、どこかで聞いたことがある声だった。

辺りを見回してもやはりいるのは鹿だけだった。

「君が話しているの?」

僕は鹿に話しかける。しかし、鹿はジッと僕を見つめるだけで、なにも答えなかった。僕はもう一度、瑞希を見つめ、そして混乱した自分を言い聞かせるように心を決めた。「まだいくつか手はある」と小人が言っていた。小人は瑞希に「あのときから目を覚ませ」と言った。

きっとなにかあるんだ。直感を信じること。変化に飛び込むこと。

僕は軽トラのドアを閉め、鹿に近づくと、鹿は僕を誘導するように暗闇の森へと歩を進め始めた。

 

 

 

小さな僕がカナブンと消えた

小さな僕がカナブンと消えた