奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

ルチェルナのこと 第五章・その②

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数枚のシャツとパンツをショルダーバックへ押し込み、部屋を出た。

京王線に乗り、新宿まで出て、特急に乗り換えて松本まで行く。

夕刻の京王線は、上りに関しては比較的余裕もあり、すぐに座ることができた。

実家の長野に辿り着くまで、およそ三時間。

特急電車が発車するまでに、少しだけ時間があったのでカツサンドとお茶を買った。漫画雑誌を買うか悩んだけれど、やめた。

指定された座席を見つけ座った。

少しずつ埋まっていく車内の中で、父さんがいま行方不明なんだよなと考えた。考えたけど、それ以上どうすることもできず、気を逸らした。なにかできることはあるだろうか。たぶん、ここに座ってることで良いんだと自分に言い聞かせた。

 

僕は電車に乗りながら、どうでもいいようなことばかり考えていた。

例えば、この前行った家電量販店の店員について。そのとき、店はそれほど混み合っていなかった。僕は特に目的もなく店内を歩いていると、一人の店員が近付いてきて「なにかお探しでしょうか?」と僕に声をかけた。いや、とくにはと僕が言うと「そうですか、なにかご用がありましたらお気軽にお声掛けください」と彼は言った。そのとき、僕は店員の顔を見た。店員は笑顔で、僕を見つめていた。そして鼻毛が出ていた。僕は「あ」と思い、その躊躇を店員も感じたのだろう。「どうかしましたか?」と彼は真剣な顔で僕を見つめた。真剣な顔をしているときには鼻毛は出ていなかった。きっと彼も鏡で自分の顔を見たときは、真剣な表情をしていて鼻毛は出ていなかったのだろう。しかし口角を上げ、笑顔を作ったときに頬肉が上に押し上げられ、鼻毛が出てしまうようだった。それをきっと彼は知らない。僕はその瞬間、伝えるべきかどうか悩んだ。「あなたが笑顔を作ると鼻毛が出てますよ」いや、余計なお世話な気もする。それはもう、彼の問題なのだ。結局、僕は鼻毛が出ていることを店員に伝えずに店を出た。

そのあと、きっとお客に声をかける度に、彼は鼻毛を見せているんだろうなと考えた。カップルにも、親子連れにも、老若男女、彼は積極的に声かけをして鼻毛を見せているんだろう。誰かは笑い、誰かは不快に思い、誰かは見て見ぬ振りをするだろう。同僚の店員で気づくものはいなかったのだろうか? いたとしても言えなかったのか? 嫌われていたのだろうか? 仕事が終わって、コンビニで弁当を買って一人部屋に戻ってメールチェックしてネットサーフィンして寝てしまうのだろうか? 恋人がいるのかもしれない。それほど美人ではないけれど、お互いの居心地には満足していた。だけれど彼は、彼女に会っているときには少し不機嫌な振りをする。「仕事どうだった?」なんて訊かれたら「別に」なんて答える。不機嫌なわけではなく、その距離感が彼にとって心地良いからそうしているのだ。だけれども、あまり笑顔を見せないので、彼女も彼が笑うと鼻毛が出ていることに気がつかない。じゃあ、彼はいったいどこで鼻毛が出ていることに気がつくのだろうか?

と、そこまで考えたときに、

「どうでもいいや」と考えるのをやめた。

 

窓の景色はすっかりと田舎へと変わり、都会の出来事は棚の上にでも置いたままにして、しばらく忘れたかった。

停車する駅で降りる人がまばらになってくるにつれて、僕の気持ちにも余裕が生まれてくる気がした。少しお腹が空いたのでカツサンドを食べた。

 

松本駅について、大糸線に乗り換える。大糸線は運行数も少なく、僕はホームの隅へ行き、電車の到着を待った。時刻は夜の九時を過ぎていた。

辺りはすっかり暗くなっていた。僕は、ホームの蛍光灯の明るさから眺める田舎の暗がりに、東京からの距離を感じる。今長野にいるんだ。

 

しばらくして僕の携帯電話が鳴った。着信表示を見たら、公衆電話からだった。

 

「はい、もしもし」

「由克か?」

 

電話の相手は父さんだった。

 

 

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