奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

ルチェルナのこと 第四章・その②

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その日の夜、突然瑞希が部屋に訪ねてきた。会うのはあの花火大会以来だった。

ノックの後、「瑞希だよ」と声がして、慌ててドアを開けた。瑞希がいる。僕は息をのみ、静かに興奮した。目の前にいる。唐突に、実際に、紛れもなく瑞希がいる。

「久しぶり。元気そうで良かったよ」

「そんなに会ってなかったっけ?」

「そうだよ。花火大会の日以来だ」

「そうなんだ。なんだか最近あっと言う間ね」

瑞希は僕のSOSを嗅ぎ付けたように、目の前に現れた。

 

「あのね、最近面白いモノ見つけたの」

そういうと、パンパンになった鞄を開け、中から一気に資料が溢れ出した。

そこには有機農法や、野菜の種類についての本。畑や、土についてなどが書かれている書類が目に飛び込んできた。

「野菜?」

「追及し甲斐、ありそうでしょ?」

 

どうやら、僕といった職安で見つけた面接先にマッサージ店があったらしく、そこに勤めることはしなかったのだけど、店主と仲良くなって、その店主お勧めの喫茶店で、たまたま置いてあった体験農業のパンフレットを見つけたらしい。

「そのマッサージ屋のおばさん店長、ツボとかコリにも詳しいんだけど、自然食品とかそういうのにもうるさくってね、色々訊いているうちに、面白そうかもって」

僕は瑞希の話を聞きながら、「ほほう、今度は野菜か」と思った。

そして、いつもそうするように、自分が調べたことを僕に熱心に説明し始めた。

僕は、その話を聞きながら、少しホッとしていた。花火大会の日の言葉、僕自身の不在感。ジンワリと僕を包みはじめていた漠然とした不安感を忘れさせてくれる気がした。

また、静かに揺さぶられる心地よい日常が戻ってきた。そんな気分だった。

 

瑞希は、僕の部屋で時間を潰すときも、どんなに遅くなろうが、眠くなるとフラフラでも自分の家へ戻ってく。

瑞希の集中力は凄いので、横から見ていて、もう限界なんじゃないかと思えるほど、専門書を読みふけり、ノートにメモを取り、実際に研究を重ねる。いったい何時間起きているのだろうと心配になることは、何度もあった。

僕が「少し、横になって体を休めたら?」と言っても、特に返事もせず、作業にのめりこむ。それが、将棋であったり、ケーキ作りであったり、スギ花粉の研究だったり、猫の散歩コースと気象の変化だったりと興味の対象はコロコロと変わっても、その集中力と真剣さは変わらなかった。

瑞希は寝姿を見せない。それは僕の中で一つの常識になっていた。

ある意味健全であり、僕自身、それを認識することによって、踏み込んではいけない領域が決められているようで、それは尊重して、大事にしてあげたいと思おうと努力した。

瑞希の真剣さは、僕の不健全さを常に凌駕していた。その真剣さの隣にいることは、僕自身にも何か役割を与えられたような心地よさがあった。

空っぽが満たされていく。

 

野菜の講義が終わり、瑞希が、資料を読み始め、ノートに気になる点を記入をし始めた。

僕は、今まで真剣に作業に没頭する瑞希の横で、何度か眠ってしまうことがあった。

目を覚ました時に、まだ作業している瑞希がいることもあれば、部屋を出て帰っていることもあった。

僕は、久しぶりに眺めるこの光景に、少しでも長く留まっていたいと思った。

眠気を我慢するため、窓を開けたり、コーヒーを飲んだりした。

僕が眠り、目を覚ましたら瑞希がいない。そういったとき、僕は少なからず寂しさを覚えた。だから起きていよう。

そう思えば思うほど、僕は眠気に襲われ、気が付けばやはりまた眠っていた。

 

僕が目を覚ました時、瑞希はリビングのお膳に突っ伏して眠っていた。

寝ぼけ眼で、そんな瑞希を目にしたとき、何かの作業をしているのかとも思ったのだけれど、瑞希は動かず、目を閉じて静止していた。

眠っている? 僕がそう認識した時、軽い混乱が襲った。どこかでそんなことはあり得ないと思っていたこと、そして、そのあり得ないことが目の前で起きていることに、僕は普段思い浮かべないようなことを考えてしまう。

 

瑞希が目の前で静止している。触れたい。その温もりを感じてみたい。

時計は、まもなく一時になろうとしていた。

世界は静まり返り、僕だけが目を覚まし、体温の上昇を抑えられないでいる。

だけど、やっぱり僕は、その混乱の中にいながら、固まり、ただ胡坐をかき、瑞希の寝顔を見つめるだけで精いっぱいだった。指一本動かすことが出来ない。

暫く、その状態で、僕は瑞希の寝顔を見つめ続けた。

そこには緊張が解き放たれ、無邪気で無防備で柔らかな寝顔が存在していた。

涙が出てきた。

その涙がいったいどんな意味なのかすら、分からなかった。

僕は、僕の中で幾つかの感情が入り乱れ、その幾つかが、こみ上げ、胸を締め付ける。

どうか、傷つかないでいてほしい。ただ、幸せだと実感できる時間が一秒でも多く、瑞希に訪れてくれたらと、願っていた。

僕はあふれ出る涙を拭い、一度強く目を瞑った。

瑞希が、「うぅん」と溜息のような声を漏らし、次の瞬間、パッと目を見開いた。

瑞希は、辺りを見回し、どこにいるのか確認するように、睨みつける。そして、後ろへ少しのけ反り、そのまま壁まで下がると、足を抱え、首を下げ、体を丸めた。

体全体が震えている。その震えは、目に見えるほどの震えで、尋常じゃない恐怖のようなものが瑞希を覆っているのが伺えた。

「どうしたの?」

僕はビックリして声をかけた。

「へ?」

瑞希が僕を確認して、睨みつけた。まだ興奮している。息が荒い。

僕は立ち上がり、瑞希に近づこうとすると、右掌を僕に向け、静止した。そして、絞り出すような声で「大丈夫」と言った。

「ごめんなさい、目を覚ました場所が私の部屋じゃなかったから少し混乱したの……」

「疲れて眠っちゃったんだ」

「そうみたいね……」

 

僕は瑞希を家まで送り、別れた。帰り道は何を話していいか分からず無言だった。

夜風にあたりながら、自分が泣いてしまったことと、瑞希があんなにも怯えた表情をしていたことに戸惑っていた。

なにかしら目に見えない事情があって、それはきっと、いつか対峙しないといけないのだろうと、僕に予感させた。

 

 

それから数日後のこと。

バイトを終えてアパートの部屋に戻り、携帯電話のランプが点滅してるのに気がついた。着信履歴を見ると母さんからだった。留守電が入っているらしく、サービスセンターへかけ確認した。

 

「お母さんだけど、お父さんが行方不明なのね。これ聞いたら連絡ください」

 

母さんは慌てた様子で、それだけ言うと電話は切られ、録音の終了を知らせる電子音のあと、メッセージは放置された。

 

 

 

くらげ

くらげ