奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

「とか」の意義。

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いや、悲惨な事件があって、それをネットで見れちゃったり、見ちゃったりしたときに、思うモヤモヤ。

 

実際に起きていることが、あまりにも悲惨すぎると、その「悲惨記憶」の断片のようなストックがドラマだったり、漫画だったりするので、「現実感」ってものから離れた意識が出てくるのは、ちょっと怖い。

 

昔の時代劇なんかは「カッコよく人を斬る」わけで、西部劇なんかは「カッコよく撃ち殺す」わけなんだけれど、普通に考えればとんでもない状態なわけで。ヒーローとか、「カッコよく蹴り、カッコよく殴る」んだけれど、これだってまたとんでもないことなわけで。

 

それが、娯楽になりえたっていうのはどういう意識なのだろうか?

暴力や残虐が、娯楽として通用すること。

 

そうなると、実際の残虐に対して「カッコいい」だとか「綺麗」だとか言いかねない。

 

かといって、「規制」すれば遠ざけられるのかっていえばまた怪しいわけで。

規制されることに対する反動は、自由だとか、真実だとか、隠された嘘だとか言って、どうしても「価値」が存在していくわけで。

 

だから漠然と答えを探るのであれば80年代の井上陽水と、90年代の小沢健二と、あいみょんが合わさる感じが、僕の中でちょうどいい意識。

 

「それらが存在しているのは勿論、知ってる」

 

見る見ないの話ではなく、人の残虐性や、発散に対し、「それが真実」などと叫んだりせず、「うん」と静かに頷き、「で、そこのお嬢さん」と、ある種の静かなる躍動と、肯定で世界を包括しようとしている感じ。

 

生きるとは夢。

どうせ夢なら、

美しい夢でありたい。

とか。

 

「とか」なの。

そこに対し、手を伸ばそうとする意志が「とか」。

 

とかなんとか。

 


小沢健二 - 強い気持ち・強い愛 Official 魔法的字幕

 

 

くらげ

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