奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

助監督と小説。

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文章をはじめて褒められたっていう記憶は、映画助監督の時。

稲垣吾郎さん主演の「スーパースキャンダル」って映画で、スキャンダルを売りにして芸能界で生き残ってる主人公の物語。

 

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作品内容がそれだから、小道具でスポーツ新聞やら、週刊誌なんかが出てきて、その記事を助監督の僕たちが書いたりするのですが、まあ、大画面とはいえちらっとしか映らないのだけれど、映る部分はちゃんと全部書くのです。

で、撮影の時、照明のセッティングをしている間、なんとなく手が空いているスタッフが小道具の週刊誌を手にして、中の記事を読み始めてたみたいで、

「これ、面白いな。誰書いたの?」と、

「あ、僕です」

「いいよ。面白い。ちゃんと読めるよ」

と、マジトーンで褒めてくれた。

 

そのあとに、スクリプターのおばちゃんに裏で、

「あんたね、文章書けるんなら、本を書きな。助監督なんかしてないで本を書かなきゃダメ。せっかく褒められたんだからさ」

と、またマジトーンで言ってくれた。

 

僕は、ものすごいクセ字なのでワープロも打ったことのなかったその当時は僕の書く物など読む前から誰もが笑っていた状態だったので、結構驚いたのです。

 

助監督の仕事は他にも「小説」には役に立っていて、

例えば脚本には「場所」と「行動」と「セリフ」しか書かれていないので、小道具とかで何が必要になるのか、脚本から読み取って、監督に確認を取って、美術さんとかに伝えないといけないんですが、その場合、ある程度映像をイメージしたり、想像力を駆り立てないと後で抜けがあったりするのです。だから一生懸命考えます。手紙が出てくるなら、どんな便せんで、どういう文字で、どんなペンで書かれていてなんて、考えていくだけで、例えば「小説の描写」が完成していたりします。

 

文章は、その場面を想像するのが書く速度が一番増す方法なんて言われていたりもしますが、それに近いです。

 

で、表現するものにとって、何がメインかを考えることによって書き込む量も増やしたり、減らしたり。それも面白い。

映画演出も、文章を書くのにはやはり役に立っていて、具体的なこだわりはやっぱりそのまま書けば表現に直結する。

行動とセリフしか書かれていないものに、具体的な思いを乗せていくことが一つの演出だとするのなら、呟くような小さな声で、とか、一瞬触れそうになるがすぐに手を引き、掌を左手で押さえた。なんてセリフと行動の間に乗せていくと、文章になる。だから、僕は基本的には映画も小説もずっと同じことをしているっていう感覚があるのです。

ただ、共同作業と個人作業の違いがあるから小説を書くときは「腹の立つこと」が自分に向けられることが多くなるわけでして。

最近は当たり前になりすぎて、「自分でやればいい」と、腹も立たなくなってきました。

よかよか。

 

 

妹と猫

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