奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

漠然とした「村上春樹」。

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僕はあまり小説を読みません。

村上春樹と、伊坂幸太郎ぐらいしか読みません。

他人の小説は、一冊読むごとに、とても疲れてしまうのです。

まあ、でも、僕はもう小説を書き始めてしまったのだし、だからと言って今更付け焼刃のような取り繕いで、文学を語ってもしょうがないですよね。

 

物語の多くは映像や漫画で吸収してきました。

漫画を描いたり、脚本を書いたりしていたので、そんなことをずっとしてました。

今までの「物語」を書くということ。それを「小説」にしてみること。

だけど、たまに「本を沢山読まないといけない」みたいなことが書かれているとちょっと気にします。

小説を書きたいなら、小説を沢山読めとか書かれていると、また気にします。

コンプレックスなのかな。

 

なので、小説にたまに挑戦するのですが、本当に苦しくなる。

僕は他人の小説を読むと、物凄くペースが崩れます。

文体なのかな。何だろう。

うまく書けないのですが「あの口調」がとにかく読みづらい。

ジメッとしていて、聞いたことない漢字を多用して、気持ち悪い比喩が沢山ある。

断定的で、陰惨で、淫靡で、険悪で、人嫌いで、恨みがあって。

って、何を読んだんだ僕は……。

 

でも、村上春樹は、「夢中で呼んだ記憶」が何冊もあります。

ずっと昔、映画館のバイト先の先輩が薦めてくれて、その当時、一気に読んだ記憶。

その時「村上春樹ゴッコ」をして、二本の小説を書き上げました。

コピーしてバイト仲間に読んでもらった。楽しい思い出。

実際に小説を沢山書くようになるのは、それよりもずっと後でしたけど。

 

たぶん、そういった「夢中になれる本」はまだ沢山存在しているはずで、いつか出会えるのを楽しみにしているのですが、なかなか、どうして。不思議と。むむ。

だから小説を読むのが嫌いなわけではありません。

ただ、「出会えてない」作品が多くあるのだろうと。

しかし、村上春樹が「読めた」というのは、それはそれで凄くラッキーだったと言えると思います。

なので、僕の思う「小説」っていうのは、基本的に漠然とした「村上春樹」だったりします。

「物語」は色々と、手塚治虫とか、藤子不二雄とか、チャップリンとか、黒澤明とか、とにかくいっぱいの影響を受けているのですが、僕は当初、「よし、小説を書こう」って気分で、文字をカタカタと打ち始めたときに、なんとなく、頭にずっとあった「小説像」は、村上春樹の短編「午後の最後の芝生」(短編集「中国行のスロウ・ボート」収録)でした。

ああいうのが「小説」なんだって、漠然と思っていて、で、「小説を書くんだ」ってとき、道しるべのようにしてた気がします。

読み返すのではなくて「印象」とか「感触」みたいなものが、凄く残っていたんです。

 

僕は器用じゃないので、ゴッコをしてもまったく似てないので、そのうち、こんな感じの文体になっていきました。

って、いまだに、「どんな感じ」なのかよく分からないのですが。

 

夢中になっているときって言うのは、「スムーズ」なんです。

で、たどり着いて出来上がっている。いつのまにか。

で、どうやって書いていたのか? なんて思い浮かべたりすると、全然分からないのです。

だから、次を書こうってときにいつもプチパニックになります。

どうやって書くんだろうってなります。

 

で、再現性を意識して、方法論を模索したりすると、なんていうか、ググっと来なくなる。

「ここまで」は考えておいて、「こっから先」は分からない。みたいな、漠然としたバランスを感覚として意識するけど、「でもまあ、何か来い」って部分を大事にしておく。

って意味分からないな。

それでいいのか。

 

だから、僕の小説は「専門的」な場所だと、まったく屁みたいな感じにされるのかもしれない。

何も分かっちゃいない 本質を知れ戯けモノ 土竜の足掻き 人間は汚いのだって。

まあ、いいか。

もう、「権威」とか。

空き地の片隅で息をする。けど、決して暗闇ではない。

見向きもされない生き方ってのもまた、「物語」だろうし。

「でもまあ、何か来い」

 

とりあえず、リラックス。とても大事。

から揚げと、よく冷えた炭酸水。短パンにサンダル。フランクフルト追加。

チクタクチクタク。

 

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

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不器用なアナログレコードの挑戦

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