奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

名前のつかない感覚について。

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天才のというか、プロフェッショナルっていうのか、そういう人たちの

「なんか理解できないような発言」ってのは好きでして、

僕もそういうことが、「実感」として、いつも「保持してる」状態にあればいいなって思ったりするのです。

小説家だったら、

利己を追求すると深い所で利他と繋がる。書いているのではなく書かされている。

物語を考えてはいけない。だったり、言葉は後からやってくる。とか、そういう発言。

そういったことを僕も「実感」したいのです。

それは、かっこいいからとか、そういった事柄ではなく、なんつーか、

そろそろ「エンジン」の替え時って感じていまして。

 

僕は「評価されること」で活動の幅を広げていくのは、もうそろそろしんどいのかもって思ってます。例えば評価されたとしても、それを評価と認めないで、「もっともっと」と満足しない状態っていうのを求めている気がして。それって、ずっと苦しいだけで結局、停滞するんだろうなって。

定期的に「もうダメかも」と思ってしまうのは、そういうことが原因な気がするのです。

他人の目。

結局、最後は好きなようにやってはいるのですが、前提として「他人の目」を意識することによって、「評価される」ことを意識することで、「救われよう」としている。

それは逆に「満たされないことを求めている」気もします。

 

そのうちそれがやりたかったのかさえ分からなくなっていく感じ。他人の評価はとても嬉しいけれど、自発性ではなく、ちょっと病気みたいな感じになっていく。

 

そうじゃなくって僕自身の「興味」を追求する形で、新たに自分を動かしていくことは出来ないのかしらっていうのが、最近の僕の「課題」です。

そうなってくると、独自の哲学が必要になってくると思うのです。僕の場合はたぶん。

 

で、そんなことをずっと考えているのですが、僕にとっての「何か理解できないような発言」もちょこっとずつ見えてきた気がします。

まず、「これだ」って決めないことを決めました。

とても大事なものは「感覚」として保留しておく。

その感覚に名前を付けてしまうと、とたんに魔力は失われてしまう。

よく、テーマとか、描きたいことっていうのを固めたほうがいいと思われがちなのですが、もう少し「違うもの」に関わろうとするのなら、自分ですら理解できないけれど、その衝動なり、漠然とした思いなりに、耳を澄ませるということをおろそかにしないでおこうって。そう思います。

 

それと、僕はきっと、僕の中に抱えている「繊細で傷つきやすい、救いを必要としているもの」が、いるのではないかって思い始めていまして、

その「救いたいと思うもの」に僕は全力で味方をしないといけないのではないかと思っています。それが今後の僕が「創作」することのエンジンになる気がしています。

きっと、「救いたいと思うもの」は以前から存在していたのだと思います。

けど、それにたいしてより向き合う覚悟って言うか「興味」を深めるというか、

そういったことをしていきたい。

その僕の興味が深くなれば、誰かの「求め」と繋がる気もしています。

利己を追求すると利他へと繋がる。

 

違いを恐れず、「漠然」の味方になる。

その為にもっと強くなりたい。

 

 

不器用なアナログレコードの挑戦

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