奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

バイオリン

 バイオリンをやりたいと言ったのは私自身だった。
 だけど、練習は嫌いだった。
 小学五年生になり、自分的には随分と大人なつもりでいた。楽器を始めるには遅すぎた気もしていたのだけれど、自分だけは違うと思っていた。
 私はバイオリンを手にした時点で既に、華麗にバイオリンを弾きこなすことが出来る。そう思っていた。根拠のない自信。だけど、勿論、そんな都合がいいことは起きない。

 父親が誕生日プレゼントに買ってくれた。
 バイオリンは艶があり、光を反射させ眩しかった。
「わー、ありがとう」
「将来が楽しみだな」
 単純に嬉しかったし、喜んだのだけれど、実際音を出してみて、思った音色が出なかった時点で、私の中で「終了」してしまった。もういい。いらない。
 けど、そんなことを親には言えない。
 手にして数時間で、バイオリンは私にとって憂鬱な存在になっていた。

「ほら、しっかり練習するのよ」
 と母親に言われて、トボトボと家を出る。
 そして、いつも教室にはいかないでデパートで時間を潰していた。
 教室に行くと、勿論、私は誰よりも初心者なので、うまくいかない。そんな状態が嫌だった。私は誰よりも上手で、一目置かれる状態じゃないと嫌だった。だから二度だけ我慢していったけれど、三回目からは行かなかった。

 デパートに行って特に欲しくもないものを眺めて、時間を潰した。
 そしてずっと後ろめたかった。

 バイオリンが無くなってしまえばいいんだ。
 盗まれてしまったり、壊れてしまったのならきっと誰も私を責めないんじゃないかと、安易に考えた。
 だから、どこか遠くへ行って捨ててしまおうと思った。
 その考えは、しばらく私の中にこびり付いていた。
 両親に悪いなとも思った。けど、もういらないのだから、どうにかしたい。このモヤモヤした気持ちをすぐに取り払いたい。
「チッ……」

 私は自転車を持っていなかった。
 移動はいつもバスか電車だったし、都内だから交通の便も良かった。だけど、遠くに行くのはなぜか自転車じゃないといけない気がした。
 普段使っているバスとか電車じゃなく、何かしらの苦労を払って、バイオリンを捨てないといけない気がしていた。
 私なりに考えていた自分勝手な「礼儀」のようなもの。
 でも仲の良い友達には頼みづらかった。理由を聞かれるのも嫌だったし、借りを作るのも嫌だったから。
 そこで、大して仲も良くない、あまり口もきいたことのない二つ隣のクラスの大谷君をターゲットにした。
 何度か、デパートの前を自転車で通ったのを見かけたのと、断られてもそんなに傷つかないと思ったから。
 私は、教室に行くふりをして、デパートで大谷君がやってくるのを待った。
 そして、駐輪場にやってきた大谷君に声をかけた。
「大谷君」
「ん? お? おう」
 大谷君は私のことは認識しているけど、それほど親しくないので、動揺している様子だった。
「どこ行くの?」
「ゲーセン」
「自転車貸して」
「あ?」
「いやならいいけど」
「ん? いいよ」
 大谷君はとくに理由も聞かなかった。
 目を逸らし気味だったので、私を意識しているのかもと思うと、気分も大きくなった。

 私は自転車を借りて、雑木林のほうへ向かった。
 どこかに埋めてしまおう。もし何かあった場合、誰かが盗んで捨ててしまったみたいにしておこう。
 最初はそんなことを考えながら、少しだけ興奮していたけれど、二十分ほど自転車に乗ったら、お尻と股の内側が痛くなって、嫌になった。自転車も捨てて、バスに乗って引き返したい。
 なんだか、もう、何もかも嫌だった。
 世界が私の都合通りに行かないことが嫌だった。
 知らない街に来て、知らない場所で、初めて入るマクドナルドで、コーラを買って休んだ。
 自転車には鍵をかけなかった。
 店の外から自転車を見つめて、盗まれればいいのにと思った。でも自転車は盗まれなかった。
「チッ……」
 舌打ちを意識的にしている。
 何もかも嫌いだった。
 自分自身も。

 知らない街の神社の駐輪場へ自転車を停めた。
 神社裏の山へ登ると、街を見下ろした。
 足が痛い。もう嫌だ。バイオリンを早く捨てたい。
私は多少、分かりやすいぐらい乱暴にケースで土を掘ろうと、ガンガンと何度か振り下ろした。
 壊れる。ダメだそんなことしたら。でも、もう嫌。
「はぁっっ、あっ」

 と、その時、ふと山の途中、使い古されたリュックと、寝袋のようなものが視線の先にあるのに気付いた。
 誰かいる?
 と、思った瞬間、すぐ斜め横に大柄な中年の男性が立っていた。
「あっ」
「……」
 一瞬目が合い、寒気が私を駆け抜けた。
 直感のようなものが逃げろと諭す。
 私は、唾を飲み込むと立ち上がり、何事もなかったようにその場を離れようとした。
「ちょっと、お嬢ちゃん」
 と、その大柄の男が声をかけた。
 私はゾッとして聴こえなかったふりをしてさらに歩き続けた。
 男がついてくる。なに、こいつ。きもい。
 殺されるかも。
 私は走ろうとしたとき、男が立ち止まった。
「?」
 私も立ち止まっていた。なんで追ってこないんだと思ったし、
「バイオリン?」
 と、言った言葉が気になったからかもしれない。
「……」
「……」
 無言のまま、私は男の言葉の続きを待った。
「バイオリン捨てるの?」
「……」
「ちょっと、貸して」
「え?」
「いやならいいけど」
 私は、多少の恐怖もあったが「盗られたって言い訳が出来るかも」とも思った。そして、大柄の男にバイオリンを差し出した。
 大柄の男は受けとると、躊躇なく地面に腰掛けた。
 そしてケースを開けると、
「新品じゃん。なにも使ってねー」
 と、言った。
「あげようか」
 と、私は言った。
 そしたら大柄の男は、「は?」と言ってはいたが特に聴こえていないような感じだった。
 そして、バイオリンを弾き始めた。
「え……」
 曲名は分からない。けど、しっかりと音が奏でられているのが分かった。
 このバイオリンから初めて「音楽」が流れた。
「……」
 なにこいつ、と色々と否定的な言葉が浮かびそうだったけど、まとまらず投げ出され、そして音楽が通り抜けた。

 そして、突然演奏を止めた。
「弾けるんだ」
 と、私が言うと。
「ピアノも弾ける。ギターも弾ける。けど別に弾けたからってどうにもならないさ」
 と言ってケースへとまたバイオリンをしまった。
 そして私に差し出した。

 私はなぜか受け取っていた。「いらない」と言いたかったけど、この場の感じが少し怖かったから。
 大柄の男は何か言いたげだった。けど、なにも言葉が浮かばないのか、少し不愉快な表情を浮かべ、その場から去っていった。

 鼓動が体中を包んでいた。
 何が起きたのかよく分からない。取りあえず無事。
 私はあの男に乱暴されていた可能性だってあったんだ。
 そう思い、震え、バイオリンケースを抱きしめていた。

 デパートの駐輪場で大谷君は私を待っていた。
「遅いよ」
 と、大谷君は私に言った。私は約束した時間さえ忘れていた。
「お礼にあげる」
 と、自転車のカゴに入れたバイオリンを指さした。
「は? いらねぇし」
 と言いつつ、ケースを開けて中を確認した。
「スゲー、なにこれ、高そうじゃん」
「うん」
「売れば金になるんじゃね?」
「いいよ。売っちゃえば」
「……」
 大谷君は私の態度に、なにかを感じたようで、少し不機嫌な顔をした。私の周りには不機嫌な顔をする人が沢山いる。たぶん、私がそうさせているのだろう。
「いらないけどさ、ちょっと弾きたいな」
「……」

 私と大谷君は、高架下の空き地へ行った。
 誰にも見られなければいいなと思いながら、自転車を手で押す大谷君と歩いた。

 大谷君が、目を輝かせながらバイオリンを弾いた。
 酷い音が出た。
「なにこれ、こんな音なの?」
「んなわけないし」
 大谷君はまた挑戦した。けど、やはり酷い音だった。
 私はおかしくなって笑った。
 そして、笑って、とても苦しくなって泣いた。
「……」
 大谷君が無言で私を見ているのが分かった。
 何見てんだよ。と言いたかったが、そういう前に、大谷君がまたバイオリンを弾いた。
 下手だった。

 それを聞いて私は笑った。

 後日、母親にやっと「教室に行きたくない」と伝えた。
 母親は特に何も言わず、頷いた。きっと教室から連絡も来ていたのかもしれない。けど、私は少なからずホッとしていた。

 たまに、大谷君にバイオリンを貸す。
 貸しに行くとき、いつも私は誰にも見られないといいなと、思っていた。
 だから、
「あげるよ」
 と言うのだけれど、大谷君は、
「大丈夫」
 と断る。
 最近、少し音色が出てきたように感じられる。