奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

ちょっとそこ

「あいつがいないところへ行きたい」
 と、彼女が言ったので僕たちは取りあえず行先も決めず特急電車へ乗り込んだ。
 あいつとは彼女の父親だった。
 癇癪持ちで、反論すると大声で威嚇してくる。
 単純にめんどくさい人物であるのは誰の目にも明らかなので、友達もいなかった。けど、本人にその自覚が無く、だれかれと人の家に突然遊びにいっては喧嘩を売って騒ぎを起こす。

 僕も一度だけ会った。
 ずっと説教だった。「男ってのは好きな女が出来たら命がけで守るものだ」「金を稼がなきゃ男じゃねぇ。お前、こいつを養っていく覚悟あるんだろうな?」「喧嘩の一つもしたことねぇのか? いざっていうときに力を持ってないと守れるものも守れねぇぞ」
 言いたいことの意味は分かるけれど、声が大きく、反論は許されず、聴いていて恫喝されている気分になってくる。

 ふむ。そうかと。
 なんとなく、苦手意識が生まれてしまった。そして彼女は泣いた。
「だから会わせたくなかったの。一方的なのいつも。いっつも。相手の気持ちなんかこれっぽっちも考慮しないで、自分の正しさを主張して、ホント嫌っ。ねえ、私のこと嫌いになった?」
「そんなことないさ」
 そういいつつ、多少の恐怖は生まれた。彼女とこの先付き合った場合、あの父親とも勿論、顔を合わせないといけないことになる。当然、別の人間だし、彼女の事は好きだし、ある程度はどうにかなるだろうけど、やはり正直、めんどくさいなってのが生まれる。

 電車に乗りつつ、二人の逃避行。
 もっと、建設的な方法なり、しっかりと話し合えるだけの僕の強さが必要なのかとか、そもそもちゃんと向き合ったのかと葛藤のようなものが過ってはいた。けど、あまりに計画的すぎるのもうんざりしていた。
 まず、離れること。実際的に距離をとること。
 けど、距離が離れるほど、彼女の思考は父親に侵されていくようになっていった。
「ねえ、あなたが殺されるってことないかしら? 見つかってまた帰ったときに、なんて言えばいいと思う? 私また一人になるの? あなたどこにもいかないよね?」
「大丈夫。なんとかなる。ただ旅行に行っているだけと思えばいい」
「許可とか必要なかった?」
「まず、お父さんのことを忘れる方法を考えようよ」

 静岡寄りの神奈川の駅で降りた。
 海辺に行くと、釣り人が間隔をあけ海を眺めていた。
 海に来たところで、彼女の思考は父親の事でいっぱいだった。
「ほっとしたいのに、苦しくなる」
「戻ろうか?」
「もう少し、我慢してみる」
「うん」
 彼女は勿論、理解していた。問題は、不安に染まってしまった自分の思考だと。父親と過ごすことによって芽生えてしまった、いつも想像してしまう最悪なケースと彼女は戦っていた。大概、その想像は実際に起こらなかったけれど、癒されることは無かった。不安は常に更新されていく。

 僕たちは三十分ほど海で過ごして、また電車に乗り帰った。
 振り返れば何でもないタダのデートなのだけれど、彼女の覚悟と、どうにか踏み出したいという思いは、僕達にとっては大事な時間でもあった。

 彼女を送り届けに、家まで行った。
 父親がいて、「お、なんだおめぇか」と僕を見て言った。
 機嫌が良いので僕を招き入れ、酒を勧めた。僕が飲めないんですと断ると「酒もノメネェなんて人生損してるな」と、僕に言った。

 前に会った時よりは、多少、疲れている印象があった。
 気がつけば寝ていて、彼女はなんとか起こして、布団まで歩かせていた。

「ありがとう」
 と、彼女が僕に言った。
「うん」
「私、あなたと逃げながら少し気付いたことがあったの。いつも、問題はあいつが父親だからって思ってたけど、もしかしたら、私自身に根付いてしまってる、怯えの問題なのかもって」
「ああ、うん」

 彼女の家を出て、一人駅まで歩いていると、
「待って」
 と言って彼女が走ってきた。
 僕の前で立ち止まり、ハアハアと息を整え、
「送りたくなったから」
「うん」
 僕達は、この日はじめて手を握った。
 彼女が少しだけ僕の存在に気付いたのかもしれない。