小説kinema

小説だったり、映画だったりの作業スペース。散らかってます。

桜の景色。



安曇野は今が桜満開。
図書館に夫婦で本を返却に行く。図書館の前が公園になっていてベンチに座って花見。ちょうどいい風に桜の花びらがひらひらと舞う。絵に描いたような「桜な景色」。いいなーと勿論思う。心地もいい。
でも、最近特に思うのは自分が抱えている「気分」によって、色々なものの見え方は当然変わってくるわけで、絵に描いたような桜な景色も、映像なり、写真なり、人の手が加わった演出された綺麗さを軸に印象が固まっているので、実際の綺麗さが「思い込んでる印象」に届いていないと「平凡」なものと判断を下しそうになる。何を言っているかっていうと、自分がつまらないことばかり考えていると、どんな素敵なものを見てもつまらないものと感じてしまうってことでしてね。
だから、実際信州の山で暮らしていても「綺麗な景色」的なイメージを想像して住んでみると、抱えている「気分」が変わらない限りは、憂鬱の延長でしかない場合があるわけでして。でも実際、場所を変えてみて、生活してみて、慣れてきて、ふと「波長」があったときなどに、
「うわ、今、すごくきれいな場所に立っているな」と、立ち止まって辺りを眺めてしまう時がある。
天気が良くて、風が心地よくて、ちょうどいい静けさで。気分も良くて。
その度合いや波長が合いやすいことが多くなるのは、場の力だなって思う。
だから僕の場合、「このままでいいのだろうか?」と、くだらない切迫感を無意識に求めている傾向があるので、「ああ、素敵だな」と思うまでに時間がかかる。でもまあ、そのくだらなさも、意識して受け止めてしまえば、しっかりと楽しめるようになる。それと僕の場合、観察と反射の傾向がある。目の前で起きていることに反射して、想像を膨らまして妄想にふける。そういう楽しみ方をする。なので、実際、誰にも会わないで、綺麗な景色が広がって、ポツンと佇んでいると、妄想の広がりが弱くなる。



それは致命傷だと、どこかで思っていたのだけれど、実際、田舎の山奥で住んでいると、それはそれで妄想の幅が違う方向へ傾き、自由になれるかもというのは感じることが出来た。だから、たぶん、どこへ行っても物語は書けるんだろうなって思った。そういう怯えをいつも確認している。
さて、話がそれました。まあ、桜が舞っていたのです。
フレームに切り取られていなくて、音楽もなくて、エフェクトもかかっていない「桜の景色」を眺めて、自分なりの楽しみを感じている。
と、桜の木の横に自転車が一台、駐輪場から離れた場所に置かれていた。
特に気にしていないでいると、おばちゃんが一人寄ってきて、
「いやー、ごめんね、それ私の自転車でね」
と、おばちゃんいわく、図書館併設のカフェスペースから、自転車が見える場所に駐輪して、お茶を楽しんでいたんだとか。
「心配性でね、見える場所でね」と言ってケラケラ。
その後、おばちゃんは東京出身で、歳は七十歳過ぎで、この電動自転車は娘に誕生日に買ってもらったこと、坂をブレーキをかけないでスピードを出して降りる、それをたまたま見かけたという行きつけの食堂のおかみにしかられたこと、旦那は信州の出身で「自慢ばかりするのよ」と、桜の花びらと絶妙の景色の中で、僕ら夫婦を前に「一人舞台」を演じているように見えるほど、元気に話をしていた。
そういえば、ここ二年ほど、知らない人と五分以上世間話をしていないなと思った。
引越しで、業者や、不動産屋さんなどと話をしているときに、「人見知りが激しくなっている」と感じた。普通にしているつもりなのに、うまく言葉が出てこない。対人の準備不足をすごく感じた。と同時に、そんなにいっぱいしゃべる必要もないよなとも思ったり。
おばちゃんの話を聞きながら、素直に楽しみ、ただ頷く。
知らず知らずのうちに、安曇野の人の少なさと、「場の力」は僕の中で根付いていたんだなぁと実感。ここの良さを感じる。
次はどうなるのだろう。ざわざわ。


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で、毎日23時に更新してます。
読んでくれるとうれしいです。18話まで続く予定です。