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小説だったり、映画だったりの作業スペース。散らかってます。

嫁の個展。

嫁の個展が原宿駅すぐの場所ではじまります。
■増田佳子個展
7月15日(月)~7月28日(日)

$ドキュメントエッセイ・リターンズ。



嫁が個展をする度、奇跡のような瞬間に立ち会ってきた。

例えば、広告の片隅の絵を見て実際に足を運んでくれる人。たまたま通りすがり、画の前で立ち尽くし涙する人。うちの物置に眠っていた数年分の個展のダイレクトメールハガキを「ご自由にどうぞ」と置いてみたら数日で全部なくなった。
通りすがりの大富豪が感動し、大作のかなり高額な画を数枚も購入していくという映画のような出来事もあった。

嫁の画が実際に人の気持ちを刺激し「画の存在」で感動させてしまう(もしくは受け手が自身に感動するきっかけを与える)恐ろしさに、僕は素直に尊敬する。そのようなことが起きるのがどれほど凄いか理解できるからだ。

僕は自分の創作でこれほどストレートに人の気持ちへ届けられるものをまだ創れていない。(もしくは届けられていない)

抽象画は見ているものと、その間に生まれる関係性で無限に変化する。
「抽象」的な表現とは「楽しい」とか「明るい」とか「凄い」とか「綺麗」とか「混沌」等の感覚的なものであり、それらに必要なのは説明ではなく、画と対峙する観察者の「思考」であり、「経験」であり「生き方」だ。
生き方を刺激する。つまり、画がきっかけとなり、その人の何かが「変化」する。

僕はまだ具体的なものに囚われすぎているので、素直に対峙できる人を目の当たりにした時は、まさしく奇跡を目にしたような感動を覚える。

そして、実際に「感動」が生まれるのを知る事で、姿勢が正される。

抽象的な凄さと、それを表現する恐ろしさは「純粋さとの対峙」のような気がする。結局、具体的な表現は「理屈」がある。理屈があるという事は説明が可能であるという事。
抽象的な表現は「感じさせる」ことに力を発揮するので、そこへ理屈をつける場合、結局表現の一部について語っているに過ぎず、その無意味さに自分の小ささを露呈されてしまう。ただ感じる事への恐怖を知ることになる。

説明以外を提供でき、それに対し確実に伝わる事を知るのは、僕自身にとって表現をする際、多大な影響を与えた。素直に表現する。その恐ろしさへ踏み出す勇気を。


■増田佳子個展
7月15日(月)~7月28日(日)
中・小作品中心の可愛い展示会です♪お気軽にお越しくださいませ★
会場:KSギャラリー原宿 渋谷区千駄ヶ谷3-62-1TEL.03-3470-0810(会期中のみ有効)
時間:月~金 13時~19時 、土日 12時~18時 ※最終日28日は17時終了
JR原宿駅竹下口下車徒歩3分、東京メトロ千代田線明治神宮前駅B2出口から徒歩5分
※増田の在廊予定:7/15,20、21、23,27,28は終日、
7/16、18、は3pm-6pm在廊


$ドキュメントエッセイ・リターンズ。


増田佳子HP http://www.yoshikomasuda.com/