小説kinema

小説だったり、映画だったりの作業スペース。散らかってます。

ストレス休暇

「今日、お休み頂きたいのですが」
 駅近くの商店街を抜けた先にあるファミレスのトイレで彼は会社に電話を入れ、休暇をとった。

 彼は会社で嫌な事が続いてると思っていた。
 例えば、女子社員が目を合わせてくれなかったり、部下が反攻的だったり、上司に評価されていないとか、まあ、そんな事だ。気持ち次第で、いくらか居心地は変える事は可能だったのだが、残業続きの睡眠不足で、憂鬱は蓄積され、疑心暗鬼になり、それを支える精神力はとっくに限界を超えていた。


 会社を休む事ができたのは良いが、今度は何をすれば良いのか分からず不安になった。彼は自分でも気づかないうちに、目の前のストレスに弱くなっていた。

 それから逃げると、次に逃げたいものが現れる。いつまでたっても落ち着く事が出来ず、それを放置し続ける事はすでに彼自身が考えているよりずっと深刻な状態にあった。

 彼はバスに乗り、家に向かった。外の景色は平淡で白っぽい印象を受けた。世界から輝きや色合いが失われていくかの様に、空気が薄く、呼吸は浅く、瞼は重かった。つまり生命力が弱まっていたのだ。

 バスの中が混みはじめ、椅子が埋まり、彼の斜め前に手摺りに掴まっている男の服の色が目に入った。服の色は濃い青で、深みがあり、自信が感じられた。それを着ている事は、生命力を纏っているかの様な圧倒的な青。

 彼にはその青が眩しく、一瞬の嫌悪感と同時に吐き気が襲った。
「バスから降りたい……」
 そのストレスが頭の中を浸食し始める。そして彼が青い服を着た男の顔を見た時、思考が止まった。
 そこにいたのは

「俺だ……」

 吐息の様な声で思わず呟いた。
 青い服を着た男は彼とまったく同じ顔をした男だった。

 一体どういう事なのか?
 ただ似た男なのだろうか?
 まあそうだ。それ以外に説明出来ない。バスが発車し、降りる予定の停留所を過ぎても彼は混乱の中にいた。そして、興味の対象は、目の前の「同じ顔を持つ男」に絞られた。

 自分と同じ顔を持っていて、自信を纏っているかのような青色の服。そもそも何をしている人なのか?
 とてつもなく華やかな生活でもしているのではないか?
 そう思うとワクワクした。
 自分と同じ顔の男が自分と違う人生の中にいる。

 男はバスを貫井坂下で降り、彼も少し間を置いて降りた。

 初めて降りるバス停。
 同じ顔の男はバス停の目の前にあるスーパーに入り、チューハイとエクレアを買って、外へ出た。

 少し距離を置いてつける。
 何か起きる事を期待して。例えば、男は金持ちで、可愛い彼女がいて、ひょんな事から入れ替わる事になるとか、大豪邸に住んでいて、間違われてそこに住む事になるとか、つまり、同じ顔なのだけれども、彼の憂鬱を吹き飛ばすような大逆転が棚ぼたの様に落ちて来ないか期待した。

 しかし、そんな事は起きなかった。
 男は、少し歩いた先の団地沿いの公園にあるブランコに腰掛けると、エクレアを食べながらチューハイを飲み出した。

 ジンワリと頬を染めて、緩やかにブランコを動かしている。
 彼は少し離れたベンチに座り、携帯をいじる振りして男を見守った。

 最初はイライラしていたが、何だかチューハイとエクレアが欲しくなってきた。
そういう幸せってのがあるんだよなと彼は思った。

 彼はスーパーへ戻り、エクレアとチューハイを買った。ダブルクリームのシュークリームも買った。

 団地沿いの公園へ戻ると同じ顔の男はもう、いなかった。

 彼は「まあ、いいか」と呟き、同じ顔の男が座っていたブランコに腰掛け、エクレアを食べ、チューハイを飲んだ。

「ま、これでいいや」
 と気分が良くなってきた時、
 同じ顔の男が目の前に立っていた。
「あ……」
「あんたはスリルを求めて俺をつけて来たんだろ?」
 彼は混乱し、言葉を失う。
「だけど、そうそう、思う通りになんかいかないって、今、適当に満足しただろ?」

 同じ顔の男はそう言うと、彼に紙切れを渡した。

「そこへ書かれてる場所へ行ってみな、本当の冒険が始まるぜ」

 ニヤリと笑い、同じ顔の男は、立ち去った。

「……」
 暫く呆然と同じ顔の男の後ろ姿を眺めていた。眺めていたら、いつもの感じが彼を襲いはじめた。
 彼は慌てて携帯を取り出すと、

「すみません、体調が良くなったので今から出社します……」

 目の前のストレスに弱かった彼は冒険より出社を選んだのだった……。