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僕の映画の作り方 12章 役者・演出

12 役者・演出

よく役者さんで「どうしたら売れますか?」との質問を耳にするが、結論から言えば「そんなの解らない」である。そもそも質問の定義が解りにくい。「あの監督の映画に出るには」とか「あの事務所に入るには」とか「年収五百万の収入のある役者として生活したい」とかなら、具体的な予測を話し合うのは可能だろう。しかし、そういう事ではなくて、「ビックになりたい」とか「有名になりたい」とか「秘訣があるなら聞きたい」という、たぐいの話なら、例えるなら「痩せるにはどうしたらいいですか」に近いかもしれない。
痩せるには運動量を増やして食事の量を制限すればいいが、そういう事ではなく「ナニダイエットすればいいですか」みたいな話。もしかしたら「諦めないことだ」みたいな言葉の後押しみたいなのを求めているのかもしれない。暗に「誰か紹介して」と言う話なのかもしれない。しかし漠然とアドバイスをしたとしてそこで相手が言葉の印象をとらえたとする。「心がけ」だとか「日々のトレーニング」とか「人にやさしく」とか。

しかし、風水で「トイレを綺麗にするといい事がある」と書いてあるのを読んで、トイレを掃除して、日課のパチンコに行って負けて「運が向いてこないぞ」というような不毛さを重ねてもしょうがないだろう。結果を変えたいのであれば原因から育てなくてはならない。

例えば映画の仕事で言えば「セリフを覚えている」は当然必要になると思うし、そもそもカメラに映るのは役者の「自意識」なので、人前で「演技」が出来る訓練を積んでいれば使う側の作業効率が良くなるので「売れる」確率は上がる。自分の容姿に合ったオーディションに行くというのも確率は上がる。確率が上がる方法はいくらでもあるだろう。

だけれども、例えば「役者」という自らのイメージと実際自分が積み重ねている毎日とのギャップ、現実との差が混乱を招いている「直視したくないもの」の話ならまた別だ。
それは、直視した方が良い。でも、「直視しない諦めの悪さ」というのが好きな人もいるのでややこしい。

若い頃は承認欲求が強い傾向にある。誰かが認めてくれて、自分の世界が変化するのではないかと。しかし、「喜び」と言うものを考えた時、例えそれが「他人からの評価」によって得られたとしても、湧き上がるのは「自分の中から」だと思う。他人が認めてくれたから「自分が嬉しい」。他人が喜んでくれるのが「僕は嬉しい」。
結局、「自分の中に喜び」があるのを歳を重ねると理解していくと思う。
そう仮説した時、「役者」をやる「喜び」はどうすれば湧き上がるのかと考えてみる。
そもそもの発端が「たまたま」であったのなら、結構楽しんでいる人は多いのではないだろうか? 「最初はよく解らないけれど劇団に参加したら楽しかった」みたいな。
だいたい、東京に小劇団は一万以上あるらしい。所属の平均を10人と仮定しても約10万人が「役者」です。と言っている。なので、思いも様々だろう。
勝手に懸念すれば、「役者」と言う言葉のイメージと、自分が想像していた「役者」とのイメージが擦りあわない。なので「喜び」が得られない。と、なっていた場合、もともとの「役者」のイメージとは何だったのか? そのイメージの役者に対し、なぜ憧れたのか? そう言った検証へ入った方が良いだろう。
つまり自分が「役者」と言う言葉のどのようなイメージに「囚われているのか」。

客観的に見れば、「想い」と言うのは抽象的で、漠然としたものだ。
そして、具体的な作業と言うのは、その思いの一部に焦点を当てていく作業になる。
なので、実作業は「想い」がふるいにかけられていく作業でもある。そうなってくると、そんなはずじゃなかったと「苦しく」なる。そういった話だろうか。
それとも「答え」があると思っているから「苦しい」のかもしれない。
学校教育でそういった考え方を知らないうちに根付かせている。
「問題」には必ず「答え」がある。と。
だけれど、未来は誰も解らないのと一緒で、「答え」が解らないことも多々ある。
単純に「答えを固めなくても良い」ものが多々あるという事を理解しておくと随分と楽になるのではないだろうか。
答えを出さないと「怒られる」とか、答えられないと「落第する」とか、そういったプレッシャーに無意識のうちに自分を追いつめていたのかもしれない。
「そんなもの解らない」でも「好き」だから続ける。と言ってる人のが個人的には見ていて気持ちいい。


さてさて、ダラダラと色々書いたが、さらに続く。
雑談で「使いたい有名な役者っていますか?」と聞かれる時がある。結構、その時は真剣に考えるのだけれど、基本的には「思い浮かばない」。それについて、少し考えてみようと思う。

それは僕の演出方法に関係しているのかもしれない。
僕は演出する際、「物語全体を考え、今日ここで、この天気、この空気、この役者さん達とで、このシーンをベストなものにするには、どうしたら良いか?」
と言うのが撮影時のテーマである。そのやり方の一つとして、僕は「その場で創作する(生まれる)」事を目指す。例えば、その準備段階では脚本の書き方から考える。
具体的に言えば「現場で要素が膨らむように」書く。それは「セリフで気持ちを言い切らない」ことだったり、「動きで気持ちを表現」したり、そういう事。

前章までの具体的な作業は実に「確認要素」の多い作業で、「映画」って、「創作ではなく、実務」のようなイメージを持った人もいるかもしれないが、僕は、この「演出」が映画作りで一番「創作」になるように心がけている。
勿論、最低限の動きと妥協案は考えて現場へは行くが、僕の中では「それが一番つまらない案」としている。時間や、テンションや、そういった中でどうしてもベストへ近づかない場合、当初考えてきた「成立案」で演出する。この時は悔しい。
なので、そういった理由で僕は随分とテストを重ねる。
その役者が、その場で見たこともないような「瞬間」を生み、それを掴めないかと、ひたすら「見る」。
だから、前章で「定説」の撮影手順だと、撮影時役者は「演技を本番一回」で、やる事が普通と考えているので、「テイクが20」とかを長回しでやられると、「自分が役者として劣っているのではないか」と感じてしまうらしい。そう思わせてしまうのは悪いのだけれども、実際、そんなことを問題にしているのではないんだと、次第に気づき「変化」してくる。(と信じる)

それと、下記脚本のように、その場の判断で随分セリフも変える。

$ドキュメントエッセイ・リターンズ。-脚本修正

「定説」の印象だと「セリフを言えないのは役者失格」とか考える人もいるらしいので、これも申し訳ないのだが、セリフは言えているのだ。もっと、良くしたいだけなのだ。
その人の声質、二人の距離感、動き方、風の感じ、日の光、そんなものから変化していく。


場馴れして、結局、短いスパンの中で「演技をこなす」事になれると、「引き出し」を沢山持つことになる気がする。有名な役者さんになれば、ある程度の「型」が決まっていて、期待通りの「確かな」演技をしてくれる。でも、なんとなくイメージできるかもしれないが、その人の「怒った演技」とか「悲しい訴え」とか「よく見る動き」は似たようなアレンジが多い。たぶん見た方も「そういう場面のそういう演技」は安心して見れると思う。疑問なく。それと「そういった話のそういう演技」って言い方もある。だから、「期待に応える」プロな訳である。問題ない。素晴らしい事だと思う。実際目の前で見ると凄いなと思う。

だけれども、「その演技がいらない」ので、僕は誰を使いたいか「想像できない」のだと思う。
それこそ、「現場とはこういうもの」となっていたら、そこの「囚われたもの」を外すのに個人差はあると思うが、時間がかかってしまうかもしれない。
劇団で同じ演出家にいつも演技を仕込まれていたら、そこでの引き出しを頼りにするし、時代劇に出ているのであれば、そこでの引き出し。それが「演技」だと。
勉強は「記憶」して「披露」するのだけではなく(暗記問題)、「考え方」を「応用」するやり方(方程式の展開)もある。しかし、それらは「答えを探す」作業だ。だけれど前記の通り「答えを固めない」という判断も人生には必要だと書いた。

人は、誰だってその人なりの魅力を持っていると思う。だから協力してくれた人がこの役をやる時、「どんな魅力が出てくるのか」必死に探す作業をする。
正解は無いと知りながら、見たこともない「心の震え」を求める。
不器用な人もいるし、短気な人もいる。なかなか自意識が抜けない時もあるし、見せ方で逃げようとする人もいる。だけれども、この人でなくてはならないような魅力をその場で拾い上げた時「凄く感動する」のだ。

そして、役者さんが「やらされている」のではなく「自らを生かし、自らでしか出来ないと捉えられた」時、その場でしか生まれなかった「何か」が現れる。(と信じてる)

なので、「素直」な人と映画を作っていると楽しい。基準と言うか、そういう人と出会えるといいなと役者さんを探す。もしくは「魅力」を。

演出は祈りに似てる。