小説kinema

奥田徹の小説だったり、映画だったりの作業スペース。散らかってます。

僕の映画の作り方 3章 自己満足と言う問題

3 自己満足という問題。

よくネットの感想などで「自己満足だ」という表現で書かれた批判がある。
たぶん、「自分勝手で見る人の事を考えていない独りよがりな作品」だったと書きたいのだろう。それら批判の対象になりやすい作品の傾向は大まかに言えば「伝わらなかった」という事だと思う。この言い方がよく目につくという事は、きっと表現者へ与えるダメージが強いと思っているのだろう。つまり、この「自己満足」という言葉への恐れを表現者は随分プレッシャーに感じてきたのだと思う。言われたくない。だから言う。そういう傾向もありそうだ。
しかしまあ、読みながらも何となく感じていると思うが、「自己満足は目指さないとダメだろう」というのも理解できると思う。判断は必要だし、自分が満足していない物を提供していいのか? という事になる。
利他的と自虐的は違う。「他人に奉仕する」事を作品の定義としろと言っているわけではないだろう。きっと「配慮が足りない」という意味の方が正確ではないだろうか。
それを「商品」と考え、提供するのであれば、「満足を提供するべきだ」と。

それは、表現者が「どうしたいか」という問題でもある。
「商品」を作るか、「作品」を作るか決める必要があると思う。
まず、「作品」を作りたい。そしてその活動で収入も得たいのであれば「自分自身の商品価値」を高める活動を目指す必要があると思う。
お客さんがその「作家」が作り出す作品が見たい。と言う話であれば、言い方は変わると思うが逆に「自己満足を見せてください」と言う応援が多くなると予測される。「時間をかけた納得のいく作品をぜひ」とか。

そうではなく例えば「漫画原作のロボットもの」の企画のような作品を作りたい等を目指すのであれば、「期待がどういう方向かある程度予測されるもの」なので、それが監督と同じ名前のオリジナルキャラクターが、原作とは関係ないオリジナルストーリーで「失恋し、最後に空を見上げるとロボットが飛んでいくのが見えた」と言う作品を見せられたら(僕はそういう方のが見たいが)きっと「自己満足だ」と沢山の批判が来る事だろう。

つまり言いたいのは、「言葉の印象」に動揺してる場合ではない。と言う話。
例えば自己満足に似た言葉で「プロではない」と言うのもある。その言葉の印象に怯え、「映像でお金をもらう仕事」についていれば「プロだから」と他人に認知してもらえると考える。
「映画を作りたかった」のに、気がつけば「プロであること」にこだわり、「作品作り」から離れた「食いつなぐ労働」で時間をごまかす場合もあるかもしれない。それは、派遣の下請け制作会社で、ケーブルテレビの演出とか、イベントの撮影とか。いや、それがやりたい事で満足している人もいるだろうし、どこかで割り切って「生活の為」というのであれば全く問題はない。そこを目指す人もいるだろう。僕もケーブルテレビはやりたかった時期がある。ここで取り上げているのは「自分が誤解に怯えるあまり、新たな誤解を周囲に期待する」悪循環の問題だ。やりたい事は「映画作り」なのに「プロじゃない。自己満足」と言われるのが嫌だからと「それっぽい印象の仕事」について、「明日も撮影で大変だ」と人に聞いてもらい、一人になってどこかで満足しない自分にイライラする毎日。と言う話。
極端な話、客観的に見ればそれはそれで、葛藤もあるし、一生懸命なのだろうから「いいんじゃない?」と思うけれど、当人が嫌ならば「自分を大事にした方が良い」と思う。

価値基準を他人に求めるとどうしても不満を抱える傾向がでてくる。ストレスに包まれた人間は、周りの人間を自分のストレスレベルに押し下げようとするし、他人が自分に「何か行動してくれる」事で支配欲を満たそうとするので、思い通りにならないと「愚痴ばかり聞かされる」はめになる。「俺はああしてやった」とか、随分昔の事を持ち出し、「あいつは冷たい」と。勿論、印象としての傾向だけれど。

そうやって、つらい悪循環になってしまうよりは(勿論ならない場合もある)、自分の思いと対峙し、「自分の楽しみの為に行動する」方が健康的だと思う。
それに、自分が思ってるほど他人は自分のことなど気にしていない。人の批判をする場合は自分が言われるのが嫌で「自分の事ばかり考えている」人のが多いのではないだろうか?

とまあ、物凄く話がそれたけれど、市販の安い機材も充実してきたし、映画制作がもっと気軽に普及しないかなと個人的には考えている。写真で言えばそれこそ携帯電話にカメラがついているお蔭で、今まで見たこともない「とんでもない傑作な写真」が、そこら中で撮影されて、本人も気にしていない場所で埋もれていたりするんじゃないかなと。

僕は、映画を撮れる可能性は大前提として「誰でもできる」状態にすでになっているのだと思う。ただ、余計な「印象」や「混乱」でそれら傑作が生まれてこなかったとしたら、もったいないなと。

友達の送別に映画を作るのもありだと思うし、好きな人を撮影したいと映画を作るのもありだと思う。生きていて「楽しい」と思える瞬間に出会うことが、映画制作でもたらされるのであれば、本当に素晴らしいと思う。

大好きな人を撮りたいと、彼女主演で映画を考えた。
二人きりで撮影して、それが「二人の距離が映る」見たこともない作品になった。
それがきっかけで二人は結婚した。その後、映画を作らなかったけれど、二人は幸せに過ごし、老後になり、彼女が亡くなり、葬式で「その作品が上映」された。
僕がそんな場に出くわしたら、どんな気持ちになるだろう。
映画にはそんな(喩えが極端だけれど)素晴らしい瞬間を人生にもたらす力があると信じている。

さてさて、やっと本題に入ります。