小説kinema

奥田徹の小説だったり、映画だったりの作業スペース。散らかってます。

僕の映画の作り方 2章 何故あんなにスタッフがいるのか?

2 何故あんなにスタッフがいるのか?

映画の作り方と言っても、作品の規模や国籍、監督のやり方によってさまざまだと思う。例えば、何十人もスタッフを連れて作る大規模なものから、五人ぐらいのスタッフで作る小規模なものまで、色々ある。

だけど、物凄く簡略化して言えば「カメラで撮影したものを編集する」だけだろう。
つまり、役者を呼んできて「演技してもらってカメラで撮影して編集」する。
極端な話「それだけ」と思ってしまった方が解りやすい。
内容が「女の子ひとり、無言で歩き、最後笑う」ってだけの映画を撮ると考えた場合、その女の子と、カメラを回す人の「二人」でも成立させることは可能である。
もし、女の子が三脚で自画撮りするのであれば、「一人」でもいい。

撮影って「何だか大人数で、難しい怖い顔した人が色々な機材動かして、バタバタ動いてるよくわからない場所」なイメージがあるかもしれないけれど、それこそ、主役の役者に台本を渡すだけの人とか、言われたら物を取りに行く人とか、「細かな役割」を増やしていった結果ああいった人数になっていると考えた方が良い。
それぞれ、「いたら便利」だし、利便性もあるし、「凄い事をしている気がする」感じはするけれども、「いたら便利」の為に拘束費を払い、弁当を用意し、大人数になればなるほどその弁当の数は増えるし、移動のためには大きな車が必要だし、つまり予算が膨らんでいく。別に、それで良い。それが出来るなら。便利だし。
でも、そういう環境は「ふと映画を撮りたくなった中学生」には整えにくいだろう。

誤解も恐れず言えば、映画会社が自社制作していた時の体制が色濃く残っている。
例えば、助監督はだいたい三人から四人いるのだが、上からファースト助監督、セカンド助監督、サード助監督、フォース助監督と名前が付けられ(ファースト以外「監督助手」との呼ばれ方もする)役割としては大まかに
ファースト=スケジュール
セカンド=衣装
サード=美術
フォース=持ち道具
となっていて、準備段階で監督の考えをそれぞれの部署へ伝達しに行く。なぜそうなったかと言えば、昔、大手映画会社の偉い人が外国の映画製作の現場を見学に行って、それを参考に撮影体制を考えた。映画をまだ自社制作していた時代はスタッフは映画会社の「社員」な訳で、会社に所属して、それぞれの部署に配属された状態。で、「監督」は映画会社で言えば幹部な訳で、助監督は将来の「幹部候補」になる。なので、将来監督する時の事を考えて、それぞれの部署に顔と名前、人となりを覚えてもらえばという事で、助監督は美術部、衣装部、俳優、制作部と密になれるような体制が考え出されてこの形に。その体制が今でも名残があるわけだ。
極端な話、今の映画は「制作委員会」を立ち上げ、作るわけで自社制作より「共同出資」の寄せ集まった「イベント」のような状態なので、否定はしないが、当初の目的を考えれば能率は下がっているはずだ。スタッフはフリーで毎回同じ訳ではないし、助監督を通すより、それぞれの担当(衣装なり美術)が直に監督に確認をとっていけば良い。

ちなみに、新人の下っ端の助監督は、カメラ前でカチンコを叩く役割を与えられている。
「邪魔だ」とか「それどかして」とか、最前線で、「まだ状況を把握していない奴」が動き回ることで、「可愛がられ、顔を覚えられる」という「新入社員の利点」があった訳だが、今では雰囲気だけ残り、「怒鳴られる人」や「要領の悪い人」な印象がついて子役にもあざ笑われたりしている。テレビでもタレントがADを「お前」とか言ってたり。あれも結局、名残りだろう。
外国では監督候補が助監督をするのではなく「助監督」という仕事としてのプロフェッショナルがいるらしい。その方が良い。

他には、昔はフィルムで撮影する時は沢山の大きな「照明」が必要だった。そうじゃないとフィルムに何も映らなかったから。だからとても大きな照明機材を運ぶのにそれ用のトラックが必要だったし、重い照明を動かすために人数も必要だった。だから、照明部は大人数になる。でも、今の時代、携帯電話のカメラですら「そのまま映る」わけで、誰かを撮影する時、トラックも大きな照明も必要ないのがお分かりだろう。細かいこと言えば、夜を昼っぽい感じの照明にしたり、顔に影を入れたりと「照明的な演出」と言う話もあるだろうが、言ってみれば「その演出の時」に必要な人、モノを揃えれば良いわけで、毎回一緒に動き回らなくてもいいと思う。勿論主観だけど。

「会社としての部署の名残」ってのは色濃く残っているだろう。
照明にしろ、撮影にしろ、演出部にし、制作にしろ、それぞれに数人の助手がいる。
会社だから新人から一人前になるまで「育てる」ことが必要だったし、助手は一人前になるために現場で経験を積みながら細かな「手伝い」の役割を与えられ、徐々に成長していく。しかし、時代が進み、今、いろいろ淘汰されている最中だと思う。
撮影と照明を一人でできるスタッフが優秀と判断されたら、その一人に高いギャラを払うのと、撮影部、照明部あわせて九人ぐらいにギャラを払うのとどちらが良いかなんて話なのである。

だから、言ってみれば作品の規模である。「ヘリコプターが飛んで百人が走って、みんな撃たれて死んだ」ってシーンをシージーで全部処理するか、そのまま全部準備して撮るかの判断でやることも予算も関わる人数も変わってくる。

自分は「家族の絆」を大事に撮りたい。と考えたとする。
それを表現するために、「宇宙戦争を引き起こして、親子が生き別れになって、宇宙を漂流した末に再会できた」で50億かけて、ハリウッドスターで撮影するのも映画だし、
「再会したおばあちゃんを看病する父を見つめる娘の目線」で五人で予算なしで撮影するのも映画だと思う。

スクリーンを眺め「グッ」と来たものに僕は感動する。
時には50億より予算なしの方が「グッと」来る。それが可能なのが映画だと思う。

どんな状態でも「規制」がある。金をかければ自由に色々できるって訳でもない。金が絡む分だけ余計なしがらみや、面倒がついてくる場合も多い。

表現したい「グッと」来たものを今、自分が出来る状態で、「最高なものにする」には「何がベストか」を選択していく。それが僕が考える映画作りです。


映画は
想い×予算=伝わる ではなく、 想い×判断=伝わる である。