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奥田徹の小説だったり、映画だったり。そこらへん。

短編小説「約束です」

 考えてみたら今までの人生において「生きていたい」と切実に考えたことがあったのだろうか。たぶんない。それは、結局僕が幸せだった証拠なのかもしれない。
 だからこそ、言葉を探していた。

「失われるのは必然だった」「それは既に起きてしまった」「もう戻らない」
 まとめないといけない訳じゃないけれど、その時の僕は気持ちの行き場に戸惑い、何かしらの言葉を見つけない限り、消えてしまいたいという思いを拭い去れないだろうと感じていた。
 好きだった女の子が死んだ。殺されてしまった。
 付き合っていたわけでもなくて、ただ何度か会話を交わしただけの仲だった。飲み会で斜め前の席に座ったこと。何度か見かけてそのうちの数回、言葉を交わした。
 アドレスを交換できたらメールを送ろうと文面を考えたりした。けど、その機会が訪れず、そもそも、それまで待つ必要があるのかと思い、手紙を書こうと思った。実際に、その手紙で僕の切実な気持ちを表現できるのかは分からなかったけど、恥になろうが、笑われる対象になろうが、構わないと覚悟をした。便箋を買い、文面を考え、一文字書くごとに息を止めた。字を書く機会が減っていたので、漢字が間違っていないかとか、自分の文字が汚くないかとか、余計なことを書きすぎていないかとか、慎重に何度も彼女のことを思い浮かべながら手紙を書いた。
 ちょうど僕が手紙を書いていると同時刻に、彼女は東京の郊外の線路脇の道で刺されて死んでしまった。
 僕が彼女との未来を願うように想像している時、その命は奪われてしまった。
 事件はテレビでも報道され、犯人はすぐに捕まった。
 借金を重ねた無職の青年だった。
 万引き姿を見られたと思い、その店でレジをしていた彼女の後をつけて刺殺した。
 身勝手な殺人。

 僕は唐突に失われた彼女の存在をどう位置付けていいのか分からなかった。
 彼女が髪をかき上げたとき、たまたま後ろにいただけの自分。何度か会話を交わし、一方的に恋をしていただけの自分。

 僕のことは覚えているでしょうか?
 飲み会と講義が一緒になったときや、数人でファミレスに行ったときに少しだけ会話しました。まだ、二人きりで長い話をしたことがないから、突然、このような手紙を渡してしまった事は、とても申し訳なく思っております。
 気持ち悪く思わないでほしいです。
 ただ、真剣に、あなたと少しでも多く時間を過ごしたいと願っています。
 一目惚れをしてしまいました。
 出来れば、一度、二人きりでゆっくりとお話をさせていただきたいです。
 僕は、まだ学生でなにも約束された存在ではないけれど、
 あなたを幸せにするために、沢山の努力を積み重ねることを約束します。


 僕と彼女の関係はまだ無に近かった。何も始まっていない。けど、僕の頭の中では何度も再生された笑顔や話し声、歩き方や佇まいは永遠に失われてしまった。
「失われるのは必然だった」
 それが彼女の寿命で、そうなる運命だった。
 いや、そんなわけない。そんな言葉で蓋をして、どこかの押し入れの隅へ置いておけるような簡単なものじゃなかった。

 事件現場には沢山の花が供えられていた。手紙やお菓子も置かれていた。それらに交じり、僕の手紙も手向けた。彼女が殺された時間に書かれた、僕の未来へのささやかな願い。
 あれほど輝いていた生命が一瞬で奪われてしまうこと。
 僕に一時でも未来の希望を感じさせてくれた存在がもう、この世のどこにもいないこと。
 理解と混乱が空しさの中で浮かんでいた。

 その数日後、僕はつまらない口論から友人たちと距離ができ、大学へなんとなく足が向かなくなっていった。たぶん、イライラしていたんだと思う。何かを放棄する理由を探していた。何もする気が起きず街をぶらぶら歩いたり、漫画喫茶で時間をつぶしたり、ファミレスで本を読んだりして過ごしていた。
 僕は「生きていたい」のだろうか。そんなことを考えていた。


 半月ほどそういう生活を続けていたある日、従姉弟の陽子さんから電話があった。
「あなた確か、介護施設でバイトしてたよねぇ」
「夜勤だけね。してましたよ。四か月ぐらい」
「ちょっとお願いがあるんだけどね、一週間ぐらいうちの旦那のおじいちゃんの面倒見てくれないかな。バイト代出すからさ」
 僕は特に深く考えず、「いいですよ別に」と答えていた。
 普段ならきっと適当な理由をつけて断るのだろうけど、僕もなんだかこのまま過ごしているのにも飽きていたし、正直どうにかしてほしいと内心、叫びまわりたい気分だった。
 きっと、きっかけを探していた。なんの? それ以上はまだ考えなくていい。

 陽子さんは僕より四つ年上で、結婚して神奈川で暮らしていた。
 娘が一人いて、旦那の祖父と母親との五人暮らしをしていた。

「ホント? よかった。お義母さんがねコーラス会の仲間と一週間旅行に行くのね、その間だけ」
「うん。それほど役に立てるかわからないけど」
「大丈夫。トイレも自分で行くし、食事も一人で食べられるから」
「ああ、そう」
 電話を切った後、じゃあ、僕はどんなことを任されるのだろうと少し疑問に思ったりしたけど、特に深く考えなかった。行けば分かることだろう。
 僕は陽子さんとの約束があるうちは「生きていたい」と思えるだろうと考えていた。


 約束の日になり、僕は神奈川へと向かった。
 それほど、東京から遠いという印象は無かったけれど、電車の込み具合は僕を少なからず神経質にさせた。誰かが笑っていると少し不愉快な気分になった。誰かがスマホを眺めていると奪い取って叩きつけたくなった。聞きたくない人の悪口を耳にしたり、どうでもいい歌手の話題について耳を塞ぎたった。そんな余計なことを考えている分だけ、僕には長い道のりに感じられた。次第に車内から乗客が減っていき、車窓から海が見えた時に僕は小さく溜息を吐いた。
 陽子さんの家は山側の坂道を少し上った場所にあった。
 道路は二車線で、舗装された歩道もなく多少の狭さを感じた。坂を上っていくと少しずつ空き地やまだ手つかずの森林も多くあった。
 九月の風は少し暖かく、夏の余韻を含んだまま、秋の予感を漂わせていた。
 僕は時折、殺された彼女のことを思い出していた。
 生命の息吹のようなものを目にするたびに、なにかやりきれない気持ちになる。後ろめたいような、イライラするような。
 そんな悲しい気持ちに包まれると、目の前にあるものすべてが暗くどんよりとしたものに感じられた。

 約束の時間より、少し早かったが特に問題ないだろうと、インターホンを押した。
 この家に来るのは初めてだった。
 一度食事に呼ばれたけれど、そのときは適当な理由を作っていかなかった。
 大きな家だった。二階建てで、駐車場とささやかな庭があった。
 そういえば旦那さんはなにをしていた人だっけと思った。
「はーい、あら」
 インターフォンから声が聴こえた。きっとカメラが付いていて、誰が来たのか分かったのだろう。
「陽子さん、少し早いけど大丈夫ですか?」
「あ、はい。待って」
 玄関のドアが開き、陽子さんが顔を出した。
 出勤準備の途中だろうか、ファンデーションを塗った顔に、口紅はまだの状態だった。
「久しぶりー」
「どうも」
「ごめんね、ちょっと中で待っててくれる」
「あ、はい」
 健全な雰囲気がする。
 綺麗に片づけられた室内。必要ないものは待つべき場所で静かに身を潜めている。リビングにはソファがあり、テーブルがあり、テレビがあった。それぞれが自己主張することなく混ざり合ってバランスがとれている。そこにはささやかだけどしっかりしたこだわりがあって、それぞれが選ばれたことを光栄に思っているようにさえ感じられた。
 僕は何か否定的なことが浮かびそうになると、それを考えまいと努めた。無になろう。
「すぐわかった?」
「ええ、わりと」
 化粧を終えた陽子さんは麦茶を僕に差し出してくれた。
「で、なにも把握してないんだけど」
 僕がそう言うと陽子さんはニコッと笑い、簡単に状況を説明してくれた。
 いつも祖父を介護している旦那さんのお母さん(陽子さんにとってはお義母さん。おじいちゃんにとっては実の娘さん)は、すでに今朝、旅行に出たという。一週間の旅行で、ハワイと台湾、金沢にも寄る。陽子さんはお義母さんが旅行の支度をしている間に娘を幼稚園へ送り届け、その後、お義母さんと旦那さんを送り出し、おじいちゃんにご飯を食べさせて、今、パートへ行く準備をしている。
「ずいぶん忙しいんですね」
「そう? そうでもないよ」
 陽子さんは年上で、子供のころから僕のことをずいぶんと目をかけてくれた。
 といっても、会うのは夏休みだったり、家族の集まりだったり、一年で数回程度だったけど、僕が反抗期になろうが、思春期になろうが、いつも変わらず明るくて、積極的で、健全で、年上だった。
 僕がひねくれたり、ふてくされたり、無口だったとしても、特に様子を窺うようなことはせず、フラットのまま僕の横にきて、何気ないことを話しかけてくれた。
 そういった裏表を感じさせないでいてくれたことが、ある時期には心の底から助けられ、ある時期には辛くさせた。その辛さは恋に似たものだったのかもしれないし、僕自身の自意識の過剰さだったり、ホルモンバランスだったのかもしれない。
 結婚すると聞いたときは多少の動揺はあった。けど、その一定の距離感と、直接会った時の僕へのフェアな接し方で自然と祝福の気持になっていた。
 陽子さんには幸せになって欲しい。
 そう思えたことは僕自身の喜びでもあった。
「おじいちゃんは基本的にベッドで横になっていることが多いけど、物静かだし、優しいし、あまり心配してないわ。前にも言ったけどトイレも自分で歩いて行くし、食事はベッドで食べるんだけど一人で食べれるわ」
 僕は陽子さんの説明を聞きながら、ではなにをすればいいのだろうと思った。
「ただ、たまにボケのような症状があるの。ちょっと認知症なのかしらね。言ってる内容がおかしかったり、会話が成立しなかったりね」
「うん」
「で、何度か家を出て徘徊していたことがあってね、連絡をもらって迎えに行ったり、警察に捜してもらったり」
「ああ、それで」
「うん、だからまあ、滅多にそんなこと起きないけど、横にいて何かできることがあれば手伝ったりしてくれたら私たちも安心なの」
 僕は頷いた。
「ごめん、お茶飲んで。私もうちょっと時間あるから」
 そういうと陽子さんは立ち上がり、リビングを出ていった。二階へと階段を上る足音がリズミカルに響いた。足音に宿る性格。
 僕は特に感想もなく「そうなんだ」と思った。
 そして口紅をして丁寧に化粧をしていた陽子さんの顔を間近に見たことに「そうなんだ」と思っていた。
 あまり深く探らない。不愉快なことを考えたくない。ただ、目の前のことを処理していくこと。それが、今僕が最大限に出来る、最善なことのように思えた。

 おじいちゃんは一番奥の部屋にいた。
 介護用ベッドの上で横になり、眠っていた。僕は陽子さんに連れられ部屋へと入った。室内は狭くはなかったが、ベッドが場所を占め少しだけ窮屈な印象がした。ベッドの横に小さな椅子と折りたたんだ机があり、その横にテレビ。テレビの横にスペースがあり、そこには本棚。けれど、本棚に本はあまり入ってなくてラジカセや写真立てなどが置かれ飾り棚のようになっていた。窓は二か所。光は十分に部屋へとそそがれ、左右にレースのカーテンと綺麗な深い緑色のカーテンがあった。シンプルでまとまった部屋。嫌な臭いもしなかった。
「じゃあ、ちょっと紹介するから」
 そう言うと陽子さんは眠っているおじいちゃんを揺すった。
「おじいちゃんごめんね、ちょっと起きれる?」
 おじいちゃんは陽子さんの問いかけに「ん? ……うん」と答えるとゆっくりと目を開けた。陽子さんは僕を自分の従姉弟だと紹介して、一週間泊まるのだと説明した。
「ほら、お義母さん旅行でしょ? その間、面倒見てくれるっていうから」
 おじいちゃんは頷きながら「ああ、はい、はい、それはそれは……」と相槌をしながら僕を見つめた。
 僕はお辞儀をして「よろしくお願いします」と言った。
「どこから?」
 吐息のような声でおじいちゃんが僕に言った。
「東京からです。普段は大学生をしています」
「そうですか。それはそれは」
 そういうと少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「ごめんね、寝てるところ」
 陽子さんはそういうと、おじいちゃんは再び身体をベッドへ馴染ませるように揺すり、目を閉じた。僕と陽子さんは部屋を出てリビングへと戻った。
「ずっとあそこへいなくてもいいから。奥の部屋だから起きたとしてもここを通りかかるし」
「ええ、でも睡眠の途中の自己紹介で僕のこと認識してくれたかな?」
「大丈夫よ。意外としっかりしてるんだから」
 意外にしっかりしている認知症。と僕は思った。
 しばらくして陽子さんはパートの仕事へ行くため家を出ていった。
 僕は初めて来た家で、初めて会った老人と二人きりになった。無防備だなと思った。僕が家中をあさって、金目のものをこっそり盗んでどこかへ高飛びすることだって可能である。陽子さんにそんな詮索は一切、頭の中にないと感じられた。つまり僕は信頼されているんだ。そう思うと少し緊張した。僕がただ従姉弟と言うだけで陽子さんは両手を広げ受け入れている。ウェルカム。カモン。ようこそ。その信頼に答えることができるだろうか。
 リビングでテレビをつけ、しばらくそんなことばかり考えていた。なんだか落ち着かない。きっと相手の信頼と僕の気持のバランスがとれてないからだ。
 僕はせめて誠意を示そうとおじいちゃんの部屋へ行くことにした。
 きっと寝ているだろうと、音をたてないように静かに、ゆっくりと扉を開けてみた。
「あ……」
 中へ入るとパッチリと目を開けたおじいちゃんがこちらを見つめていた。
「あ、いや」
 僕は多少混乱し、そもそも僕を覚えているのだろうかと緊張した。自己紹介しようか。沈黙の中、無言で見つめあうこと数秒。おじいちゃんは僕を認識したらしく、口元に小さな笑みを浮かべると再び目を閉じた。
「……」
 きっと覚えていてくれたんだ。僕はまた音をたてないように、そろりと動きながら椅子へ座った。なにかのゲームのような気分になる。眠っているモンスターを起こさないように近づく。その流れだと急所めがけてなにかしらの攻撃をって、そういうことではない。
 静かな部屋。
 しばらくしておじいちゃんは寝息をたて始めた。僕は体を動かすとおじいちゃんが目を覚ますのではないかと、椅子に座ったままの状態で辺りを見回した。
 おじいちゃん名前なんて言うんだろう。聞かなかったな。そりゃおじいちゃんって言えば伝わるんだろうが、例えば突然息が止まったとして救急車を呼んだ場合、名前すら言えないんでは申し訳ない。どこかに書いてないかな。
 部屋は綺麗に整理されている。
 本棚には亡くなったおばあさんと一緒に写っている写真が飾られてあり、その横に、その写真から作成されたフィギュアが置かれていた。少しデフォルメされた人形は可愛らしかった。きっとプレゼントなんだろう。フィギュアの足元にケンゾー、サキと書かれた文字が見える。ケンゾー。おじいちゃんはケンゾー。
 僕はケンゾーさんの寝息を聴きながらジッとそのフィギュアと写真を眺めた。
 写真の二人は自己主張なく、静かにこちらを見つめている。二人は寄り添うわけでもなく、ほんの少し間をあけて正面を向いて立っている。
 いいな。なんか。
 おばあさんは亡くなった後、こうして写真を飾られ、フィギュアが置かれている。
 いい。すごく。
 そしてやはり殺された彼女のことが過った。悲しみというよりは願いのような気持だった。
 やすらかに。どうか。
 静寂の中、いつしか僕は胸が締め付けられていた。幸せであろうとした日々と、寝息をしている生きていることへの敬意のような気持ち。
 窓からの光が部屋を包み、僕は自然と涙を流していた。
 なにかしら押さえていたものが一気に溢れ出したように、僕は声をたてず流れる涙をぬぐい続けた。
 なぜ彼女は殺されなければならなかったんだ。
「どうしました?」
 僕は一瞬、幻聴を聴いたと錯覚した。
「なにか悲しいことでもあったんですか?」
 声の方を見るとケンゾーさんが目を開き、僕を見ていた。
「あ、いえ、写真見てたら素敵だなと思いまして」
「ん?」
 ケンゾーさんは本棚の写真へ目を向けた。
「優しくてよく笑う、いい家内でした」
「そうですか」
「ちょっとトイレ行ってきます」
「あ、はい。なにか手伝いますか?」
「いや、大丈夫です。五分ほどで戻ります」
 そう言うとケンゾーさんは起き上がり、部屋を出て行った。
 五分程で戻ります? 
 もしかしたら僕を一人にしてくれたのかもしれない。


 夕方になり陽子さんと娘のミカちゃんが帰ってきた。
 食事の準備をしている間に陽子さんの旦那の健太さんも帰ってきた。それぞれがケンゾーさんの部屋へきて僕に軽い挨拶と、ケンゾーさんに優しく声をかけていった。
 健全な雰囲気。優しさ。暖かさ。
 そんな言葉が頭を過るたびに僕は自分の暗さや、不健全さ、思春期の惨めな性欲の思い出なんかが刺激された。意味もなく申し訳なく思った。
 追い打ちをかけるように夜は僕の歓迎会が催された。
 ケンゾーさんまでいつもはベッドで食べるらしいのに食卓まで来てくれた。僕は戸惑い、こういうとき、どういう顔をしていいか困っていると、
「どういう顔をしていいか困ってるでしょ?」
 と、陽子さんが僕を見て笑った。
「困ってたら困ってる顔していいんだから」
 ミカちゃんは無邪気に今日の幼稚園の出来事を話してくれた。健太さんは僕にお酒を勧め「遠慮しないでくださいね」と言った。ケンゾーさんはゆっくり食事を口元へ運んでいる。ローストビーフ、サラダ、スープ、切り分けたパン、白ワイン。何を話せばいいのかなんて考えなくていいほど、それぞれが好きなことを話し、楽しそうにしていた。
 そのある種なんでもないような光景が僕にとっては不思議な異世界へ招かれているような気分がした。ここにいる人たちは、僕が落ち込んでいるのを知っていて、それで僕を励ますために集まっているのではなく、きっと自然なこととして、人に対し親切なのだろうと思えた。それはやはり、僕にとっては驚きだった。
「どう、おいしい?」
「どれもとても美味しい。竜宮城ってこんな感じかな?」
 僕がそう言うとみんな笑った。ミカちゃんが知ってる分野に反応したように、たどたどしく竜宮城と浦島太郎について教えてくれた。なかなか的確だった。
 けど、あながち僕は冗談を言ってるつもりもなかった。光が眩しすぎて影が際立つ。いつも影ばかりが本質だと勘違いしていたような気がする。光は存在する。ただ僕が疑い深く、信じることを恐れていただけだったのかもしれない。
 きっと眩しすぎて、下ばかり見ていたんだ。

 

 僕の役割は介護と言うよりは付添いだった。
 主にみんなが留守中、家で過ごす。一緒にテレビを観たり、昼寝したり、眠っている近くで本を読んだり、食事もケンゾーさんと一緒にとるようにした。陽子さんがお弁当を用意してくれていたのでそれを二人で食べた。
「普段はお義母さんが作ってるんだけど」と陽子さんは言っていた。
 ケンゾーさんは無口だった。僕も余計なことは言わなかった。でも話しかけたら静かに丁寧に答えてくれた。「お弁当おいしいですね」と言われ「そうですね。おいしいですね」と答えた。
 老人ホームでバイトをしていたときには、様々な人を見た。老人だからといってみんながみんな老成しているわけでもなく、下品なことを言い続ける人や、耳打ちするように誰かの悪口を言う人や、不機嫌な人も多くいた。それらの日々は、僕にとってとても勉強になったし、同時にうんざりしたことも多々あった。けど、一括りに人のことを「老人」なんてまとめて、邪険にしようとする意識は生まれることはなく、やはり僕と同じ、痛みも、悩みも抱え、喜びを得たいと思い続けているのだと知った。
 当たり前だけれど一人一人、性格も違うし、考えていることも違う。
 ケンゾーさんはきっと、穏やかな性格なのだろう。僕の存在を受け入れてくれて、そしていつも敬語だった。その距離感は、僕にとってとても心地良いものだった。

 そんな感じで、二日目、三日目と特に大きな出来事は起きず過ぎていった。
 誰もが健全で明るく、親しげだった。僕はこの家族の親戚で、そのことを嬉しく感じていた。
 変化は四日目に起きた。
 陽子さんもミカちゃんも戻ってきて、僕もホッとしていたころに簡単な買い物を頼まれた。近くのスーパーを教えられ、油と調味料とキャベツを買った帰り道のこと。
 線路を潜り抜ける形になっている歩道横の駐輪場の隅でうずくまって「おえっ、うげぇ」と苦しそうにしている人がいた。たまにいるこういう人。なんか大変だな。手を貸した方がいいのか、見ないふりして通り過ぎた方が親切なのかなんて思っていると「ゲェー」と吐いたようで、あ、どうしよう。見ないふりかな。と思って立ち去ろうとしたとき、その苦しそうにしていた人が顔を上げた。僕は思わず声が出た。
「あ……」
「え?」
 健太さんだった。
 僕はなんて声をかけていいか分からず、
「今お帰りですか?」
 と、あからさまに白々しい言葉をかけていた。健太さんもどう言えばいいか戸惑ったのか「買い物ですか?」と僕に訊いた。うずくまって苦しそうにしていた人と交わす言葉じゃないよなと思いつつ、「油とキャベツと調味料を頼まれまして」と続けたが、その後はやはり気まずい沈黙が流れた。
「……」
「……」
「大丈夫ですか?」
「あ、うん、はい」
 健太さんに家の近くにある小さな公園で少し休んでいいですかと誘われた。しばらく無言のまま、二人で公園へと行った。
 僕らはベンチに腰掛けた。沈黙はまだ続いていた。健太さんは何を話して、何を話さないでおくべきか整理しているかのように、視線を左右へと動かしている。
 その緊張は僕にも伝わってきた。きっと見てはいけない光景だったのかもしれない。勿論、全てが健全でいられるほど、日々の積み重ねは簡単なものではないことぐらい知っていたつもりだった。けど、健太さんはそれすら、しっかりと僕に説明しようとしている。そんな気がした。
「家庭はうまくいってます。陽子もミカも好きだし、祖父と母も不満を募らせているような思いはしてないと思います」
 健太さんは静かな口調で、確認するように話し始めた。
 僕は聞こえていることを知らせるように頷いた。
「問題は職場です。私はコンピューター関係の仕事をしています。ほとんどが画面に向かって過ごし、あとはミーティングです。専門的な分野ですけど嫌いじゃないし、自分でも向いてると思います」
 僕は話の続きを待った。
「でもある日、突然バランスが崩れました。些細なことです。挨拶すると相手が目を逸らしているように思えたり、周りでふと耳にする言葉が私への中傷のような気がして落ち着かなくなりました。表面上はうまくいっているように振る舞うのですが、仕事への集中力は減りました。誰もが私に対して敵意を持っているように思えました。いくつかの些細な失敗をして、同僚は許してくれるのですが、本当は許していないんだろうといつまでも気にしました。それで胃を痛め、トイレから出られないときが増えました。そして不安になるんです。私はもう使い物にならなくなってしまったのかもしれない。大好きな家庭も維持できないかもしれないと思うと、また不安に襲われ怖くてどうしようもなくなるんです」
 そこまで言うと健太さんはまた沈黙した。僕はなにか言わなきゃと思いつつ、言葉が見つからなかった。
「対処法もいくつか自分で調べたりしたんです。休みをとることだったり、発散することだったり、けどあまりうまくいきません。自分でもある程度の認識はしているんです。なにも起きていないことも分かっています」
 言葉が止まった。
 少しだけ続きを待ったが、沈黙のままだった。きっと健太さんは言うべきではなかったと後悔しているのかもしれない。そんな表情をしていた。
 僕はその気持ちのままにはさせたくないと思った。
 なにか話したい。何か話さなくては。
「……僕はどちらかと言えば明るいか暗いかとで言えば、暗い側の人間だと認識しています。無口だし、本を読んだり人が少ない場所を散歩したり、誰にも会わなくてもそれほど苦にならず過ごせます」
 僕は正直な話をしたいと、自己紹介をしていた。
「でもたまに、とてもキツイときがあります。最近も人にどう説明していいのか分からないようなことでキツイなという思いを抱えています」
 僕もそこまで話すと、やはり言葉は続かなかった。
「どうしたらいいんでしょうね」
 と、健太さんが言った。
「そうですね」
「……」
「……」
「でも……うん……」
「はい」
「……帰ろうか」
「はい」

 二人で家に戻って「そこで偶然会って」と説明したら「遅いから迷子になっているかと思った」と陽子さんが笑った。健全な笑顔。僕は少し心が痛んだ。
 そこに明るさがある場合、影は深く暗くなる。きっと。
 夕飯時、健太さんはそれまでと変わらぬ感じで楽しそうに過ごしていた。
 実際、楽しいのだろうし、きっと幸せでもあるのだろう。けど、この幸せを維持するために健太さん自身、見せたくない部分、家の中へ持ち込みたくなかったものを僕は知ってしまった。
 僕に何かできるのだろうか? いや、そういうことでもないような気もした。できれば知らなければ良かったとも思うし、僕も少し余計なうち明け話をしたなと自己嫌悪がした。

 

 ケンゾーさんと過ごす時間はおだやかだった。
 ただ近くで時間を過ごしているだけだったが、天気のいい日に川辺で佇んでいるような気分だった。窓から入る光と、カーテンが含む色合いが室内を包む感じは遠い昔の夕暮れのようだった。
 何度か僕もケンゾーさんと一緒に眠ってしまうことがあった。そして目を覚ますと、ケンゾーさんも静かにベッドで寝息を立てている。その姿を確認して、「ああそうか、今僕は陽子さんの家にいるんだった」と思い出す。
 そのときもそうなるはずだった。

「え?」
 僕が目を覚ましたとき、ケンゾーさんはベッドの上にいなかった。
 寝ぼけた思考と現実とのギャップにしばらく状況が把握できていなかった。
 徘徊? いや、トイレ? 捜さなきゃ!
 いくつかの単語が頭を通過した。僕は慌てて部屋を出て家中を捜した。が、見つからない。どうしよう? 連絡したほうが? 警察? いや、遠くへは行ってない。
 僕は家を出て、預かっている鍵で玄関の戸を閉めた。どこを捜す?
 と、混乱しているさなか、目の前をゆっくりと歩くケンゾーさんがいた。
「いたっ!」
 僕は全力で坂を下り、追いつくとケンゾーさんの前へ立ちふさがって息を整えた。
「ケンゾーさん……ハアハア……」
 ケンゾーさんはきょとんとした表情で僕を見つめた。
「やあ、どうもどうも」
 そう、少しかすれた声で言うと微笑んだ。
「あの、どちらへ?」
「ちょっと散歩でも」
「そうですか……」
 僕はそれ以上追求するのを止めた。僕の動揺は僕の責任だった。ケンゾーさんは眠っている僕を気遣って、静かに外へ出てくれたのかもしれない。それに「心配だから」という理由で家にずっと閉じ込めるのが当たり前と考えていた僕自身の考えもなんか嫌だった。
 ケンゾーさんは自由に外へ歩く権利があるんだ。
「あの、付き合います」
 僕がそういうと、ケンゾーさんは一瞬だけ驚いたような表情をしたが、また少しだけ微笑み、「はい、はい」と頷いた。
 よく見るとケンゾーさんはパジャマをしっかりと着替えて、外を歩いても不思議でない格好をしていた。こげ茶のパンツに紺色のシャツ、灰色のジャケット。痩せた体系はひょろりとして見栄えも良かった。
 その後、僕とケンゾーさんは軽く近所を歩き(ケンゾーさんは歩幅小さく、ゆっくりと歩いた)、公園で少し休んで、家へと戻った。
 そして二人でお弁当を食べた後、ケンゾーさんはまた眠った。
「……」
 ほっとした。
 ふと、本棚を見ると少し違和感がした。なんだろ。いつもと違うような。いや、変わってないような。……あ。
 フィギュアのおばあちゃんがない。
「え?」
 この短時間に泥棒が入ったのは考えにくい。しかも、おばあちゃんのフィギュアを盗む泥棒ってのも、もっと考えにくい。
 外出時にケンゾーさんが着ていたジャケットが目に留まった。
 僕が壁掛けのハンガーかけへ吊るした。
 右側のポケットが少し膨らんでいた。僕はジャケットへ近づき、その膨らんだ場所へ手を当てた。そして確信するとポケットの中からおばあちゃんフィギュアを取り出した。
「スゥー……フゥー……スゥー」
 ケンゾーさんの寝息が耳に入ってきた。熟睡始めた合図。
 僕は音を立てないように、おばあちゃんフィギュアをケンゾーさんフィギュアの横へ並べた。
 ベッドの横の椅子に腰掛け、本棚のフィギュアを眺めながら、もしかしたらケンゾーさんはボケてないのかもしれないと思った。
 理由はない。ただなんとなく。


 夕食時、ミカちゃんの描いた絵が週末に市民ホールの美術展で貼り出されることが話題になった。ミカちゃんは誇らしげで、僕にも見に行ってと言う。
「いや、でもおじいちゃんを見てないといけないから」
「大丈夫よ。土曜だし昼間は私がおじいちゃん見てるから。良かったら行ってあげて」
 と、陽子さんが言った。
「あ、そう。でも陽子さんは?」
「私は日曜日に行くから」
「そういうことなら」
「午前中なら僕も行こうかな」
 と、健太さんが言った。
「あれ、仕事は?」
「外で打ち合わせがあるからちょっと空くんだ」
 ミカちゃんは誰かが話すたびに「そうそう、そうそう」と相槌をして遊んでる。
「じゃあ、決まりで。良かったねミカ」
「うん」

 僕らの食事が終わり、陽子さんがケンゾーさんへご飯を食べさせているとき、
「ちょっと歩きません?」
 と、健太さんに散歩へ誘われた。

 僕たちは坂を下りながら夜の暗さについて簡単な言葉を交わした。
「こうして静かな道を歩いてると、どうでもいいことばかり考えている気がします」
 夜の暗さについての会話終わりに健太さんが言った。夜風は涼しく僕らを撫でるように通り抜け、少しだけいつもより正直さが刺激されている。
「断片的に拾い集めた言葉で私の頭の中は支配されてる気がします。それらを組み合わせたりしながら、なぜ私はこんなに怯えているのかと」
 僕はなにも言わず、健太さんの言葉の続きを待った。
「推測なんですが、私は少し病んできているのかもしれない。どこかでなにかしらの対処をしなければ、大切なものを失うかもしれない」
「そういうことばかり考えてしまうんですね」
「ふと、時間が空くとそんなことばかり考えて怯えている自分がいて、そして誰に相談していいのか分からない」
 僕はやはり言うべき言葉が見つからなかった。けれど、無理やり言葉を捻り出すのも少し違うと思い、ただ頷いた。
「第一弾、花火!」
 健太さんが空気を入れ替えるように言った。
「え?」
「なにかしらの対処をとね」
「あ、はい」
 僕らはコンビニエンスストアの片隅に追いやられたおもちゃの花火セット一つと、缶ビールと、ハイボールをそれぞれ三缶ずつ買った。
 海辺へ出ると夜釣りをしている人が数人いた。
 あまり邪魔にならないようにと、釣り人から離れて腰を下ろした。そして、健太さんは缶ビール、僕はハイボールを手にして乾杯した。
「たまに、夜散歩して、一人でビールを飲むんだ。陽子が一緒のときもある」
「静かですね」
「今日は波が穏やかだ。波音と風によって、同じ場所でも全然違うんだ」
 僕は暗がりに佇むように反射する光を眺めた。月明かりがこんなにも辺りを包むんだと新鮮な驚きがあった。心地いい。
「ごめんね。余計なことばかり聞かせてしまって」
「いえ、人の話を聞くのは好きなんです」
 それはデマカセじゃなく、本当にそうだった。例えば自慢話であったり、明らかに嘘が混ざった話であっても、それらを楽しんで聞くことができた。事実かどうかはそれほど重要ではなく、今、目の前の人が僕になにを伝えたいと思っているのか。そんなことを考えながら聞くのが好きだった。でも、苦手な話が無いわけじゃない。会話の目的が、伝えることじゃなくて、僕を支配するためのものは苦手だった。そういう場合は会話が成立せず、なにを言っても否定されてしまう。世の中の大抵のことは、見る角度によって幾らでも反論できるのだ。そんなフェアじゃない一方的な行為は好きじゃない。
「話すことができて随分楽になった気がする。それは僕の中で、一つの発見だった」
「役に立てたのであれば、嬉しいです」
「家に戻ってしばらくすると落ち着いてくる。だけど、体の端々に影響は出ているみたいで、例えば最近、涙が出ないんです」
「涙が出ない?」
「そう。単純に泣けないという感じじゃなくて、あくびをしたり、目をしばらく見開いていたり、顔をパンパン叩いたりしても涙が出てこない。目薬をすればいいし、深く考えることじゃないのかもしれない。もしくはもっと深刻に捉えたほうがいいのかもしれない。涙が枯れ果ててしまうほど弱っているのかもしれない」
「色々なことに疲れてしまったのかもしれないですね」
「うん。きっと疲れてる。涙も出やしない」
「大丈夫、きっと泣けますよ。そのうちに」
 健太さんは少し微笑んだ。
 薄明かりの向こう側、犬の散歩をしながら歩いてくる男性と女性が目に留まった。四十代ぐらいの夫婦だろうか。女性が犬に引っ張られていて、その後ろをゆっくりと男性がついてきている。女性が追い越そうと走ると、犬がギャン、ギャンと吠えて追い抜くように走り出した。勢いがつき、女性の手からリードがはなれ、犬は一直線に僕と健太さんのほうへ走ってきた。健太さんが手を出すと、興奮したように身体を摺り寄せてくる。僕も手を出してみた。すると物凄い速さでくるりと回るようにして僕にも擦り寄ってくる。
「すみません~」
 女性が慌てた様子で、僕たちのほうへ走ってきた。
「大丈夫ですよ。人懐っこいワンちゃんですね」
 と、健太さんが言った。
「まだ、パピーで、八ヶ月なんです」
「へー、可愛いですよねぇ」
 と、僕が言ったら、犬が踏ん張り始めてうんちをした。
「ああ~すみません~」
 ゆっくり歩いていた男性が、その様子を見て慌てたのか、申し訳なさそうに、僕たちに頭を下げながら近づいてきた。
 男性は肩に下げていた鞄から、袋を取り出して、慣れた手つきでうんちを包んだ。ビニールの外側にトイレ用らしき紙がついていて、うんちを掴むと、くるっとひっくり返して、袋の中に紙で包んだうんちが収納されたようになる。それを眺めながら、なるほどと思った。
 うんちをした犬はなぜか興奮して、女性の周りをぴょんぴょん跳ねていた。
 お酒に、海に、跳ねる犬。なかなかいい。
「なかなかいいね」
 と、健太さんが言った。
「なかなかいいです」
 と、僕も答えた。

 犬と二人が去った後、僕と健太さんはうんちされた箇所から少しだけ離れて、花火をやろうとした。けれど、二人ともタバコは吸わないのでライターは持ち合わせていなかったし、それ以外に別のなにか火をつけられるものも持ってはいなかった。
 そして、なんだかおかしくなり、二人で笑った。
「まあ、いいか」
「買ってきます? ライター」
「いや、第二弾行こう」
「お?」

 海を後にして、少しだけ歩いた場所にある居酒屋に入った。
 間接照明。綺麗に席が区切られ、品がいい店だった。僕は普段、ほとんどお酒を飲まなかったので、ハイボールを三缶も飲んで既に、気分がいいと、気分が悪いの中間にいた。
「君の話も聞きたい」
 そう健太さんに言われ、僕は死んでしまった女の子の話をした。
 彼女のことは僕にとってまだ整理できていないことだったし、どう説明していいのか分からなかったのだけど、できるだけ正直に話した。何も始まっていないうちから、全てが消えてしまったような感覚。それは彼女に関してのことだけじゃなく、これから全てにおいて、なにも喜びを見出すことが出来ないのではないかという思い。それほど、僕は勝手に彼女に対し、決意を固め、約束を果たしたいと思っていたこと。けど、そんな一方的な思いは、伝えることすらできず僕自身が処理しなければならない。
 健太さんは真剣な表情で僕の話に耳を傾けていた。
「キツイな、それは」
「ええ」
 その後、健太さんは生ビールの大ジョッキを何杯か飲み、僕は最初に頼んだハイボールをチビチビと飲み続けていた。
「月並みの言葉はきっと聞きたくないと思うけど、だけど君は、彼女の分も生きていかなくてはいけないと思う」
「……」
「その子が輝いていたことを知っている君が、存在していることはとても尊いことだから」
 酔いに任せて二人で大騒ぎすることなく、僕と健太さんは静かに飲み続けていた。事実確認をするように、淡々と自分の思いを交換するようなやり取りで、とても居心地がよかった。やはり、僕も一人で抱えていることは辛かったんだ。

 会計はすべて健太さんが払ってくれた。そのとき、レジに立った女性店員にコンビニで買った花火をあげていた。
「酔っ払いのお願いは、みんな親切に聞いてくれるんだ」
 と、健太さんは言った。
 僕は気分が良いから気分が悪いへの割合がずいぶんと増えていて、
「ちょっと吐きそうです」
 と、小声で健太さんへ訴えた。
「よし、じゃあ、そこの隅だ」
 僕は背中を擦られ、丁寧に案内されると道の隅にあった側溝に向けて吐いた。
「よし、付き合うぞ」
 と、健太さんも一緒に吐いた。
 そういえば昨日、健太さんが吐いてるのを見かけたんだよなと過り、「今一緒に吐いてる」と思うと、少し変な気分がした。僕は吐き終わり、道端に座り込むと妙におかしくなり、笑い出した。
「大丈夫?」
 と、健太さんが聞いた。
「大丈夫っす」
 と答えてゲラゲラ笑い続けていた。
「お酒弱いんだね」
 その後、健太さんに抱えられた辺りから僕は記憶が無かった。


 目を覚ましたときは日付が変わっていた。
 僕は用意された客間のソファーベッドから起き上がり、しばらく状況を掴めないでいた。夢? いや、服は昨日のままだし。時計を見ると十時過ぎだった。
 部屋を出ると陽子さんが庭で洗濯物を干しているのが見えた。
「おはようございます」
「あ、おはよう。シャワー浴びる?」
「あ、はい。すみません。あの、健太さんは?」
「もう、仕事行ったよ」
「そうですか……あ」
 陽子さんが僕のパンツを干していた。
「ん?」
「あ、いや……シャワー借ります」
「どうぞー」

 僕はシャワーを浴びながら一通りの出来事を思い返した。酔っ払って、昔、少し心を動かされた従姉弟の家で目を覚まし、シャワーを浴びてパンツを干されている。
「ふむ……なるほど」
 僕は股間を洗った。
 当たり前のようにトーストとサラダを食べ、コーヒーを飲みながら改めてここでの生活が僕に馴染んできているのを感じていた。
 死んでしまった彼女の存在とは別に、新たにここでの生活が僕自身の中で積み重なっている。実際、それは僕が余計なことを考える時間を減らしてくれていた。

 陽子さんがパートに出かけ、ケンゾーさんの部屋へと行った。ケンゾーさんはいつもそうしているように静かに寝息を立てていた。
 僕は何かの役に立っているのだろうか?
 なぜか罪悪感のようなものが気持ちをザワつかせ、殺されてしまった彼女のことを考えた。どこかで一度、ゆっくりと彼女について深く考えたいと、僕自身望んでいた気がする。悲しみはもちろん存在したが、また別の感情が僕の中に積み重なっているのも感じられた。自分が軽薄で惨めなものに思えて少しだけ苦しくなっていた。殺された彼女のことは僕の中で純粋なものから自分の弱さを隠す「言い訳」のような形に変化していないだろうか。そのことについて、ケンゾーさんの寝息を聞きながらしばらく考えていた。
 トイレへ行くとき廊下から庭に干された洗濯物を眺めた。そこに陽子さんのシャツやミカちゃんのワンピース、健太さんの下着やケンゾーさんのランニングに混じって、僕のシャツと下着も干されていた。
「……」
 僕は言葉を失い、しばらく洗濯物を眺めていた。

 お弁当を食べているときだった。
「日曜日、あなたはここにいますか?」
 と、いつものかすれた小さな声でケンゾーさんが僕に訊いた。
「はい。いますよ」
「……実は、お願いがあります」
 「実は」という響きが少しだけ緊張を含んでいた。
「はい。なんですか?」
「また日曜日に言います。秘密なので誰にも言わないでください」
「分かりました」
 ケンゾーさんのお願い。秘密。いったいなんだろう。九十歳を越えた老人が僕にするお願い。嬉しい気持ちになった。
「それと今日、少し散歩してもいいですか?」
「もちろん、いいですよ」
 この前のことを少し気にしているのか、申し訳なさそうにケンゾーさんは言った。
 食事をした後、一時間ほど休んでからケンゾーさんと二人で散歩に出た。歩幅は小さく、ゆっくりと歩いていたが、そのペースは僕にとっては心地いいものだった。天気もいい。
 後ろを歩きながらケンゾーさんはボケてなんかいないんじゃないかと思っていた。それはただの誤解だったり、なにかしらの認識不足が周りにそう思わせてしまったのかもしれない。だけど、ほんの五日ほど近くで座っていただけの僕が判断することではないなとも思った。


 土曜日。健太さんの運転でミカちゃんの絵を三人で見に行った。
 運転席と助手席の親子を後ろの席から眺めていると、映画を眺めているようなほど、そこに自分が含まれていないような感じを抱いてしまう。健全さ。
 僕があまり体験してこなかった明るい日常。いや、実際は僕も幼いころ、これと似た日常を過ごしていたのかもしれない。けれど記憶からすっぽり抜け落ちていてる。きっと余計なことで頭がいっぱいだったのだろう。
 ミカちゃんは時折、後ろの僕に顔を向けて笑った。
 僕も笑った。

 市民ホールに着くと、受付前が美術展の会場になっていた。かなり広いスペースに幼稚園と小学生の絵が所狭しと貼り出されていた。会場内は親子連れが多くいた。絵の前でスマートフォンで記念写真を撮ったり、知り合いと会話をしていたり、子供が走り回っていたりした。
 僕と健太さんとミカちゃんは、縦四列、横数十列、仕切りになっている壁にもびっしりの絵の中から、ミカちゃんの描いた絵を探した。
 画用紙に描かれた絵はそれぞれが夏の思い出を描いているようで、それでもその子が好きであろう、お花や、大きな誰かの顔や、トラックなんかが紙いっぱいに描かれている。

「あった!」
 ミカちゃんが声を上げた。僕と健太さんは近づくと、ミカちゃんが指差す方へ目を向けた。上から二列目。タイトル「かがやくもり」
「綺麗な絵だね」
 と、僕は言った。
 大きく描かれた男性と女性と女の子。きっと健太さんと陽子さんとミカちゃんだろう。その三人の周りを色鮮やかな木々が包んでいる。ピンクやオレンジやイエロー。自由な色。
「これはいつの出来事なの?」
「なつにハイキングいったの。それでたのしくて森がかがやくの」
「なるほど」
 楽しい自由な発想。いいなと思った。
「いい絵ですねー」
 と、健太さんを見ると、立ち尽くし、その絵を凝視していた。
「……健太さん?」
 健太さんの瞳からスーっと涙が零れ落ちた。
「え?」
 そしてその一滴を皮切りに、壁が打ち砕かれ、決壊したかのようにボロボロと涙を流し始めた。
 健太さんが泣いている。健太さん泣けた。と僕は思った。
 ミカちゃんがポカンと健太さんを見つめている。僕はなにか言わなきゃと、「パパ感動してるんだよミカちゃんの絵凄いって」と伝えた。
「ホント?」
「ホント、ホント、ねえ健太さん」
 と、僕が言ったかと同時ぐらいに健太さんが屈み、ミカちゃんを抱きしめた。
「ん?」
「凄いな。ありがとうミカ」
「すごい?」
「うん」
 ミカちゃんは嬉しそうだった。けど、周りの人が少しびっくりしていたので、僕は慌てて携帯電話を取り出し、二人の写真を撮り始めた。
「いやー、パパ感動、パパ感動、その瞬間」
 などと言いながら状況を説明し、場の違和感を取り除こうとした。
 健太さんは涙を止めることは出来なかったけど、笑顔で「凄いなー、凄いなー」とミカちゃんへ伝えていた。ミカちゃんは嬉しそうに笑い、健太さんの頭を撫でていた。
「すごいだろー」

 家へ戻ると陽子さんに「パパ泣いたよ」とミカちゃんが報告した。
「なに、そんなに凄い絵なの?」と陽子さんが訊くと、
「パーフェクト」と健太さんが親指を立てた。
「じゃあ、明日楽しみね」
「明日も行こう!」
「へ?」
 そもそもなぜ親子三人の邪魔を僕はしているのやらと一緒にいながら思っていた。きっと誰もがあの名作を予想していなかったのだろう。名作はいつも突然現れる。ノックなんかしない。
「あの絵は三人で見たほうがいいです」
 と、僕も陽子さんに言った。
「なになに、凄いねーミカー」陽子さんがそう言うと、
「すごいだろー」とミカちゃんが誇らしげに胸を張った。

 その日の夜、健太さんは僕に、
「あの絵を見た後、仕事行ったんだけど、なんだろ、普段より余計なことが気にならなくなったんだ」と言った。
「きっと、うまくいく。そんな気がする」
「そうですか。良かったです」
「うん」
 僕は携帯電話で撮った昼間の写真を健太さんへ見せた。絵の前で抱き合っている健太さんとミカちゃんの写真。
「お、これも名作だね」
 と、健太さんはまんざらでもなさそうだった。一瞬で過ぎる時間。尊い思い出。
「ずいぶん、色々な角度から撮ったね」
「どれかいります?」
「全部」
 僕は健太さんとアドレス交換して、二人が写っている写真を全部送った。二十三枚あった。
「ありがとう。色々と」
「いいえ」


 日曜日。明日の昼には陽子さんのお義母さんが帰ってくる。一日じっくり過ごすのは今日が最後だった。
 この前ケンゾーさんに言われていた「お願い」が引っかかっていた。今日、秘密のお願いをされる。たぶん。たぶんというのはケンゾーさん自身が忘れているかもと思ってもいたから。けど、ケンゾーさんは忘れてはいなかった。
 陽子さんと健太さんミカちゃんが美術展へ出掛け、僕たちが二人きりになったときケンゾーさんが言った。
「お願いがあります」
「はい。今日は約束の日曜ですね」
 ケンゾーさんがしっかりと頷いた。
「私を湘南平の展望台まで連れて行ってほしいのです」
 湘南平の展望台はこの家からそれほど遠くにある場所ではなかった。タクシーでも呼んでいけば二十分かからず到着できる。
「僕も行きたいと思ってたんです。じゃあ、仕度してタクシー呼びましょうか?」
「いや……歩いて行きたいのです」
「歩いて?」
「はい」
 歩いて行くとどれくらいだろうと思った。ケンゾーさんのあの歩幅だと二時間近くかかってしまうかもしれない。いや、体力的なことも考えると休憩も必要。三時間。
 ケンゾーさんは僕をすがるような目で見つめていた。
「どうしてそうしたいのですか?」
「理由はあります。けれど、それは秘密です」
「そうですか……」
 ケンゾーさんはもしかしたら今までも、ただ湘南平の展望台を目指していたのかもしれない。けど、いつも途中で連れ戻されたり、理由を言わないことでボケたと思われたりしていたとしたら? 時計を見ると午前十時八分。かかっても午後の二時とか三時。陽子さんたちは昼は外で食べて、ショッピングモールへ寄って帰ると言ってた。ギリギリ?
「理由があるんですね」
「はい」
「とても大切な理由ですか?」
「はい、とても大切です」
 僕は今判断しなきゃと緊張した。
「条件があります。帰りはタクシーを使うこと。体力的に僕が無理だと判断した時点で引き返す。それでもいいですか?」
「はい、はい」
 ケンゾーさんは僕を見つめながら、力強く首を縦に振った。
 いいのだろうか? 自分で言っててマジかよと思っている。
「じゃあ、急いで準備しましょう」

 車道は二車線で、歩道は狭かった。
 けれど、車通りもそれほど多くなかったので、僕の気持ちとは対照的にケンゾーさんとの「秘密の脱走」は、穏やかな散歩に近かった。
 いつものようにケンゾーさんの歩幅は小さく、調子のいい亀になら追い越されそうなくらいだったが、表情は真剣で、その気迫は心を打つものがあった。
 足どり、息遣い、目つき、立ち止まらない。
 いったいどんな理由があるのだろう。
 住宅が並んでいて所々自然が残されていた。そういえばあまり歩き回ることはしなかったなと思った。健太さんと夜に少し海へ出掛け、居酒屋へ行ったけれど昼間はやはりケンゾーさんと過ごすことが多かった。特に不満があったわけじゃないけれど、こうやって改めて知らない場所を歩くことは心の片隅のどこかしらを明るくさせた。
 木々が風に揺れ、光が影を作る。遠くの角で猫が通りかかり、雲が空とともに圧倒的な開放を予感させた。
 道路脇に宅配業者のトラックが停まっているときは少し緊張した。車が発進するのが早いか、歩いて追い越すほうが早いのか。追い越す場合は道幅が狭いから二人で車道を歩くことになる。僕は後ろから車が来ないか警戒しながらケンゾーさんと歩いた。どうでもいいようなゴミが目に留まり、その干からびた具合からいつごろから放置されたのか推測したり、何人かが「こんにちは」と挨拶をしてくれて、僕は健太さんたちの知り合いかもと思い、「ちょっと散歩を」なんて言い訳っぽい返事をしたりした。その度に、相手から困ったような苦笑いや、曖昧な表情をされた。

 気がつけば四十分は過ぎただろうか。九十歳を越えた老人が四十分間休みなく歩き続けるということはどういうことだろうか。僕は注意深くケンゾーさんを見た。端から見ている分にはペースも崩さず、ゆっくりと歩いているように見えるが目つきがより切実さを増したような気がした。
「大丈夫ですか? 休みますか?」
 僕がそう尋ねるとケンゾーさんはゆっくりと少しだけ首を横に振った。
「疲れたり、苦しくなったら言ってくださいね」
 今度はゆっくりと少しだけ首を縦に振った。
 切実さ。僕は無理やりにでも休みをとらないと、ケンゾーさんは倒れるまで歩き続けるかもしれないと心配が過ぎった。どこかでタイミングを見つけなくては。
 それから約二十分後。僕は半ば強引にケンゾーさんを休ませた。
 広い空き地が駐車場のように使われていて、片隅が休憩できるようにベンチが置かれ、横に自動販売機が設置されていた。
 ケンゾーさんは腰掛けると胸を張り呼吸を整えている。僕は自動販売機で水を二つ買って、一つ蓋を開け、ケンゾーさんへ渡した。
「あ……、どうも、ありがとう」
 口元へ水を運ぶと、ゆっくりと、のどボトケが動くのが見てとれた。僕はいつものようにただ隣にいて座っていた。出来るだけ体力が回復して欲しいと思っていた。余計なことを質問して無駄に疲れさせてはいけないと思った。

 十五分ほどしてケンゾーさんは立ち上がると、再び歩き出した。
 決意。僕はこんなにまで九十歳を越えた老人を駆り立てる思いとはいったいなんなのか考えないわけにはいかなかった。時間が積み重なるごとに、明らかに疲労が蓄積されていくのが分かった。もとから小さかった歩幅はさらに小さくなり、摺り足で歩いているようにも見えた。僕は心配しつつも、日本の伝統芸能の能や歌舞伎の歩き方みたいだなと思っていた。美しいかもしれない。ケンゾーさんは美しいかもしれない。

 休憩する回数も徐々に増えていった。石段や公園やベンチを見かけるたびに細々と休みを入れた。そして、そのたびにケンゾーさんの口数も増えていった。それは最初、会話というよりは独り言のようなものだった。「まだ……まだ」とか「大丈夫……」とか、そういったものから「約束だったから今日しか……今日が」と文章は長くなっていった。湘南平へ行くことが「約束」。そしてジャケットのポケットを見ると少し膨らんでいるのが分かった。きっとおばあさんのフィギュアが入っているのだろう。
 二人の約束。言えない約束。
 僕は後ろを歩きながらどうにか早く辿り着いてくれと思い始めた。先の道のりがもどかしい。どうか早く達成してと、ケンゾーさんの想いの成就を願った。無事に何事もなく。
 そして、二時間半は歩いただろうか。ケンゾーさんの息遣いは荒く、何度かもう引き返しましょうと言いたくなるような場面が増えてきた。
 湘南平へ続く坂道はそれなりに険しくて、僕自身も疲労が蓄積されていた。それを僕よりずっと年上の九十歳を越えた老人が登り続けている。いいのだろうか? それが例え願いだったとしても止めるべきじゃないのか。そんなことばかり考えていたときだった。
 スッと突然、ケンゾーさんが目の前の視界から消えた。
「へ?」
 いや、消えたのではなく、ひざから崩れ落ち、地面に倒れていた。
「ケンゾーさん!」
 ケンゾーさんはハアハアと息を整え、下を向いている。素直に「生きている」と思った。と同時に「死んじゃう」とも思った。
「すみません……少しだけ、ここで、座ってていいですか……」
「はい、もちろんです」
 既に山道へ入っていた。道幅は相変わらず狭かったが、山道の斜面はケンゾーさんが屈みこんでいても不自然な感じを軽減させていた。僕はペットボトルの水を差し出した。ケンゾーさんは首を振り、それを断ると、息を整えることにしばらく集中していた。痩せ細った身体が息を整える姿は、砂漠にいる飢えた動物を見ているかのようだった。
 なにかが木の葉を揺らせているような音がした。それがかすれた声で搾り出すように話すケンゾーさんからだと気づくのに少し時間がかかった。
「……妻は死んでしまいました。けど私はまだ生きています」
「はい」
「想いを抱えて……生きています。二人で叶えることは出来ませんでしたが、生きているということは想いを大事にすることだと思うのです……」
 ケンゾーさんが自分を奮い立たせるためか、独り言のように話している。言っている内容の文脈は、詳しくは分からなかったけど、決してボケているのではないのは分かった。
「叶えられなかったのは事実です。けれど今、大事なのは事実ではなく、想いなのです」
「……」
 今、この瞬間ケンゾーさんは確かに「生きて」いた。
 僕は涙が出てきた。
 叶えられなかった事実。残された想い。
 僕は殺されてしまった女の子のことを考えないわけにはいかなかった。
 僕はケンゾーさんの中に僕自身を見ていた。
 涙が止まらない。
「大丈夫ですか?」
 ふと見ると、ケンゾーさんが僕を心配そうに覗き込んでいた。これじゃ逆だ。
「はい、すみません」
「行きましょう」
「はい」
 そこから三十分ほど歩いて、僕とケンゾーさんは湘南平の展望台へ辿り着いた。
 一面、広大な海が見渡せた。ミニュチュアの東京タワーのような電波塔と、レストランがあった。まばらに数人がいたけど、それほど混んでいる印象は無かった。
 ケンゾーさんは何も言わなかった。
 ただ黙って、海を見渡せるベンチに座った。
 僕は少し離れてケンゾーさんを見守った。

 誰にも話さない、内緒の約束。それを今、果たしているのだろうか。
 せめて想いだけでも。
 ケンゾーさんがおばあさんのフィギュアをポケットから取り出してしばらく眺めていた。それはかなり長い時間だった。
 海はよく見ると様々な色を含んでいた。対面する空も雲に光を反射させ海面の色に変化を与えていた。
 どんな約束だったのだろう。
 老人が一人、フィギュアを手にしてベンチに座り海を眺めている。もしかしたらなんでもない光景かもしれないし、やはり少し徘徊やボケを心配する人も出てくるような場面なのかもしれない。でも、僕にはただ、ただ美しいものに見えた。
 そして、とりあえず無事でいてくれていることに胸を撫で下ろした。
「良かった……」

 そのとき、携帯電話の着信音がポケットの中で振動とともに響いた。陽子さんからだ。
「今どこにいるの?」
「あ、ちょっとケンゾーさんと散歩に」
「あのね、ちょっと色々とあって早く戻ってきたの。それでね、今日最後じゃん。どこかでみんなで食事なんかどう?」
「あ、それはもう、ぜひ」
 僕は陽子さんと電話で話しながら、どう辻褄をあわせて戻ろうか考えを巡らせていた。
「その前にね、おじいちゃん連れて行ってあげたいとこあるのね」
「あ、はい、どこですか?」
湘南平の展望台」
「え……あ」
 さて、なんて言おう。ふと、ベンチに座るケンゾーさんへ目を移すと、ケンゾーさんがフィギュアのおばあちゃんへキスをしたように見えた。
「あ……」
「え? どうしたの?」
「いや……実はね……」
 僕は陽子さんに、今、湘南平の展望台へ来ていることを話した。もちろん、歩いてきたなんてことは隠して、「少し高い場所で風を感じてみたくってね」なんて言っていた。

 電話から少しして、陽子さんたちは健太さんの車に乗って展望台までやってきた。僕とケンゾーさんがハラハラした三時間ほどの道のりを、車は数十分で飛び越えてきた。
 駐車場から歩いてくる三人。
「ん?」
 ミカちゃんが沈んでいるように見えた。
 健太さんがそっと肩に手を添えると、我慢していたものが溢れ出たように、顔を崩し、泣き始めた。
「どうしたんですか?」
 僕は陽子さんへ訊くと、
「ミカの絵、破かれちゃってたの」
「え?」
「会場の人に聞いたら、走り回ってた数人の子供が、じゃれあって転んで、その反動で数枚の絵が破れちゃたらしいのね。その中にミカの絵もあったらしくて」
「そうなんだ……」
 健太さんもきっとショックだっただろう。けど、沢山ミカちゃんを励ましていたんだということが伺えた。近くで存在を感じさせ、一人で寂しい思いはさせたくないとしている。
 ミカちゃんは僕を見つけて、「破れてなくなっちゃったの」と言って、また泣いた。健太さんは、僕を見て力なく頷いた。
 僕になにが出来る?
 ミカちゃんの顔が見える位置へ屈んだ。「想い」という言葉が漠然と、僕の頭の片隅に過ぎった。
「僕は最近、大事なものを失ったんだ。それはとてもキツイことだったし、今でもどうしていいのか分からない」
 なにを言っているんだろう。僕は自分の想いを言葉にしようと思っている。
 ミカちゃんが、涙を手のひらで拭いながら、僕を見た。
「ミカちゃんの絵は破かれてしまったけど、あの絵や、ここでの日々なんかが僕のキツくて辛い思いを和らげてくれたんだ。つまり僕はミカちゃんの力で少し幸せになれたんだ」
 ミカちゃんは鼻をすすり、僕を見ている。
「だから、一つだけ覚えていてほしい。ミカちゃんにはそういう力があるんだってことを。誰かを幸せにすることが出来るんだってことを覚えていてほしいんだ」
 僕が頷くと、ミカちゃんも頷いた。
「約束だよ」
「うん」
 健太さんが口元に小さく笑みをつくり、頷いた。
 そして、陽子さんがミカちゃんの手を繋ぐと、健太さんも繋ぎ、三人でベンチへと座るケンゾーさんのもとへ歩み寄った。
 僕はケンゾーさんがフィギュアをポケットに入れるのを見逃さなかった。秘密の約束。
 海を眺めている家族。四人の背中を眺めながら、綺麗だなと思った。
 もし、彼女が殺されなかったら、僕にもこういう家族を作ることが出来たのだろうか。
 陽子さんが振り向いて、僕を手招きした。
「あ……」
 少し緊張した。
 けれどなんだか、とても嬉しかった。

「おじいちゃん忘れてるかもしれないけど、今日っておじいちゃんとおばあちゃんがデートして初めての記念日なんですって」
 陽子さんが、こっそりと話すように僕に言った。
「初めての記念日?」
 陽子さんは僕に顔を近づけ、耳元で、
「ここでキスしたんだって」
 と言った。いい匂いがした。
「私たちが生まれるずっと前の話。ここの場所だってまだ違う名前だった頃の話」
 僕はそうなんだと思った。
「健太さんはおばあちゃんから聞いたことあるらしいのよ。十年ごとに二人で登って、二人で海を眺めていたって」
 と言って笑った。

 僕はケンゾーさんの約束を想像した。キスの記念日。九十歳を越えて、きっとまだ覚えている。特別な想い。ケンゾーさんは昔から、九十歳なわけではなく、真剣に情熱を傾け、幸せを育もうとした沢山の時間が積み重なり、今がある。
 素敵だなと思った。

 ミカちゃんがケンゾーさんの横へ座り、手を握った。
「キレイね、うみ」
 と言うと、ケンゾーさんが、
「そうだね。綺麗だね、海」
 と言った。

 その後、僕たちは健太さんの運転で、海沿いのホテル内にある中華レストランへ行き食事をした。相変わらず、僕がこの健全な雰囲気に混ざっていることに違和感はあったけれど、一週間前よりは馴染んでいるのかもしれないと思えた。
 痛みも、傷も、想いも、確かに存在している。混ざり合い、日常の一場面として通り過ぎていく。「本当にどうもありがとう」と、陽子さんが僕に言った。健太さんも、ミカちゃんも、ケンゾーさんも僕を見ていた。そして微笑んでいた。
 僕は少し照れくさくなり、笑顔を隠すように下を向いた。
 眩しすぎるんだ。


 翌朝、陽子さんのお義母さんが旅行から戻る前に家を出ることにした。
 ケンゾーさんの部屋へ行くと、いつものように眠っていた。ジャケットのポケットが膨らんでいたので、そこからおばあさんのフィギュアを出して、定位置の棚へと置いた。
「またきてね」
 と、ミカちゃんが幼稚園に行く前、早起きして描いたと言う「ピンク色の海」の絵を僕にくれた。「凄い、うまいねー」と、言うと、誇らしげに胸を張って笑った。
 海が綺麗で、だからピンク色なのだ。世界は自由で、見かたによってそれは人を幸せにさせる。
「すごいだろー」
 健太さんが出勤前、「また一緒に飲もうね。そして一緒に吐こうよ」と言って笑った。
 日常が始まっていく。幼稚園に送り迎えを済ませた陽子さんが、僕の顔を見て、
「よし」
 と言った。
「ん?」
「また来てね。いつでも」

 僕は荷物をまとめ、家を出た。あっけないほど、当たり前のように、日常のように。
 坂道を下りながら、ここ一週間での僕の変化について思いを巡らせてみた。
 けど、そんなことはやはりどうでもいいことで、ただただ目にした事実に、過ごした時間に、評価とは別の「想い」だけが蓄積されていた。

 曇り空が心地よかった。風は少し冷たくて丁度いい。湿度の感じだけはあまり好きになれない。僕は、都内へ戻ると殺された彼女の犯行が起きた場所へ立ち寄った。
 供えられた花は枯れ、誰もが慌しく通り過ぎていく。
 僕は立ち止まり、しばらくその枯れた花を眺めていた。
 そして、昨日の夜に書いた手紙を手向けた。

 あなたを好きになったことを僕は決して忘れません。
 そして、そのことがとても素晴らしいことであったことを、
 これから、生きていくことによって証明できたらと思います。
 約束です。

 気がつくと、足がその場で固められたように硬直しているように感じられ、もう、自分の意思では歩けないのかもしれないと、不安に陥った。
 けれど、それは錯覚で摺り足で少し前に進むと、固まっていないことを確認できた。
 きっと歩ける。
 そう心で呟くと僕はその場所を離れ、歩き出した。