奥田庵

小説だったり、映画だったり。犬だったり。

撮らない書かない日々。

 

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最近は、一つの小さな物語を頭の中で泳がせている。

結婚を許さない父親の物語。

許さないまま、結婚式当日を迎える。

そもそも父親は結婚式に呼ばれていない。

離婚していて、式に出席しないほうが「都合がいい」と、省かれている。

結婚を許さないことで、娘の結婚相手が何度も訪ねてくる。

たまに娘も来る。

 

父親にとっても「許さない」ことは、娘に会えるかもしれないという思いもある。

 

なんて設定だけ用意して、ジタバタする「動き」を考えて楽しむ。

部屋に閉じこもったり、少し顔出したり、抜けだしたり、要望言ったり、

追いかけたり、叫んだり、

象徴的なラスト。

ほぼ動きと単語のセリフだけで成立しないかなぁって楽しむ。

 

でも、別に撮る気も、書く気もないので、

ただただ、楽しんでる。

 

映像にするなら、動きが面白いほうがいい。

説明台詞ではない、単語と間。

 

一通り、考えて、「ああ、ここで逆光で」なんて考えて、

楽しむ。

 

でも撮らない。書かない。

 

それとは別に書きかけの書きたい物語も気になる。

それも書いていない。

随分と、野心も減って、でもまだ残りカスみたいなものが不愉快。

とりあえず「楽しむ」そして泳がせる。

 

僕は沢山のものに「飽きて」しまったのだけれど、チョロチョロと

衝動のようなものがもっともっと溜まって、

そのうち形になる。きっと。

とか思って毎日が過ぎている。

 

たぶん、それで合ってる。

 

たまに書きたくなる無価値なこと。

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やる気がしない。

 

やる気がしないことをわざわざ書き記すことが、無価値なことぐらい分かっているのだけれど、まあ、いい。

なんか書きたいから書くのである。

 

暇つぶしに読んだ本に勇気づけられるのであれば良いのだけれど、余計なことを考えすぎて、なんだか、結論の出ないことをボンヤリと棚に上げて、眺めている状態ってのもまた無価値である。

 

でも、無価値にも、取り方によっては、価値は生まれるのであろうけれども、実際、役に立つものが重宝されるのであろうから、たぶん、大多数のものを無視した状態で、この文章は成り立つわけである。

 

例えば「刺激に強い」人と「刺激に弱い人」がいるという知識。

人間の八割がたが「刺激を求める」ことに快感を覚えるといわれていて、騒いだり、暴れたり、危ない乗り物に乗って喜んだりする。

僕はそんな例えからすれば二割方の「刺激に弱い人」に分類されるであろうと予測できる。ジェットコースターとかまったく楽しくないし、人が多いの苦手だし、騒がしいと疲れるし、大きな声を出す人からは出来るだけ距離をとりたい。

もう、同窓会もいかないだろう。

 

でもまあ、八割方が、「刺激に強い人」だったりしたら、そもそも商売ってのはそっち側のほうに有利なもので構成されていることが多いわけで、エンタメ関係のものは、バシバシ刺激的なものが全体を占めていくってなってくると、もう、それだけで疲れてしまうのである。

でも実際、ただ疲れてそういうのを見るのが面倒になったのか、もともとの資質がそうだったのかはよく分からない。

 

「刺激」が扱われるものに対して、そこに至るまでの「移入」がしっかりしているものだったりすると楽しい。そういうものなら扱える気がする。

 

扱う話になっているのは、自分が物語を書くからであって、

「なんだよ八割も、刺激が欲しい人だったら僕が作るものなんか、ほとんど伝わらないんじゃねーの」と思うのはまた当然であって、でもまあ、考え方によっては、少数派に位置することによって、端から競争から離れた場所にいると思っていたっていいわけだけれど、そんなになんでも落ち着かせられるものでもないだろう。

十人手にして、一人の人がまた手にしてくれればいいという考えもあるのだけれど、まあね、そんなことばかり言って、自分を慰めていたって、心地よくもない。

だからとっとと「誰か」を期待することはやめなければならない。

誰も分からないのだ。八割分からないのだ。

 

だから、没入状態を求めるのだけれど、最初に戻るわけで、

「やる気がしない」

やる気がしない人間を都合よく、助けてくれる世の中でもないし、みんな自分のことで精いっぱいなのである。僕は僕で、そもそものやる気がしないぐらいは自分で解決しましょうって話で。誰のせいでもないので、だからまあ、胸を張って、勝手にやる気がしない状態でいればいいのだ。

 

ということで、こういうときにも遅々として物語を書くのです。

誰に期待されなくても、僕は書き残しているものに対し、喜びが存在している。もう、僕だけのための物語になりつつある。

僕だけの物語は、長編だと思っていたものが、実は二つの物語だったんだと気づき、そこで一気に疲れた。どっちからやるか悩むのである。結局どっちもやるし、どっちを書くのも大変だし、書きあがったとして、八割には響かないし、二割には届かないので、僕の中でグルグルと成長していくだけである。

 

まあ、いい。ンなこと書いてると、なんて無価値なことをしようとしているのだという自分に対して、少しやる気が出てきた。

僕の人生である。

 

どうせ伝わらない。

知ったこっちゃない。

 

無価値と思えるものについて考えるのは嫌いじゃない。